中国史における「太上皇后」の事例

概要
中国の歴史において、太上皇帝となった人の正妻を「太上皇后」と呼ぶことがあった。そして、太上皇帝が崩御すると、「太上皇后」を「皇太后」に改める例もあった。

漢の高祖(劉邦)は、自らが皇帝となったあと、父である劉太公を太上皇とした。太上皇となったとき、劉太公は劉邦の実母とは別の女性と結婚していた。『漢書』では、この女性のことを太上皇后と呼んでいる。『漢書』の高帝紀の高祖十年(紀元前197年)五月条には「太上皇后崩」とある。

北斉

北斉の武成帝は、後主に皇帝の位をゆずり、太上皇帝となった。その際、武成帝の皇后の胡氏は太上皇后とされたようで、その後、天統四年(568年)十二月に武成帝が崩御すると、「太上皇后」に「皇太后」という称号が与えられている。『北史』の斉本紀の天統四年(568年)十二月戊寅条には「上太上皇后尊號為皇太后」とある。

さらに、承光元年(577年)に後主が子の幼主に皇帝の位をゆずり、太上皇帝となった。このとき、幼主の生母で、後主の皇后であった穆氏は太上皇后となっている。『北史』の斉本紀の承光元年(577年)正月乙亥条には「帝為太上皇帝、后為太上皇后」とある。

唐の順宗は、永貞元年(805年)に息子である憲宗に位を譲り、太上皇帝となった。このとき、順宗の后妃の1人で、憲宗の母でもある王氏は、太上皇后とされた。『旧唐書』の后妃伝においては、王氏に関して「及永貞內禪、冊為太上皇后」との記述がある。

その後、元和元年(806年)正月に順宗が崩御すると、同年五月に王氏は太上皇后から皇太后へと称号を変えられた。『旧唐書』の后妃伝において、「元和元年正月、順宗晏駕。五月、尊太上皇后為皇太后」とある [1]

徽宗の皇后であった鄭氏の肖像画。鄭氏は徽宗が退位すると、太上皇后となった。
徽宗の皇后であった鄭氏の肖像画 [2] 。鄭氏は徽宗が退位すると、太上皇后となった。

宋の徽宗は、宣和七年(1125年)十二月に子の欽宗に皇帝の位をゆずった。このとき、欽宗の母で、徽宗の皇后であった鄭氏は、太上皇后とされている。 『宋史』の徽宗本紀の宣和七年(1125年)十二月庚申条には「尊帝為教主道君太上皇帝、居于龍德宮、尊皇后為太上皇后」とある。

また、宋の高宗は、紹興三十二年(1162年)六月に養子である孝宗に皇帝の位をゆずった。このとき、高宗の皇后であった呉氏は、太上皇后とされている。『宋史』の高宗本紀の紹興三十二年(1162年)六月丙子条には「詔皇太子即皇帝位。帝稱太上皇帝、退處德壽宮、皇后稱太上皇后」とある。なお、呉氏は孝宗の実母ではない。

その後、高宗が淳熙十四年(1187年)十月に崩御すると、呉氏は太上皇后から皇太后に改められた。『宋史』の孝宗本紀の淳熙十四年(1187年)十月乙亥条には「太上皇崩于德壽殿、遣誥太上皇后改稱皇太后」とある。

また、紹熙五年(1194年)七月に光宗が退位し、その子である寧宗が即位した。このとき、寧宗の母で、光宗の皇后であった李氏は、寿仁太上皇后とされた。『宋史』の光宗本紀の紹熙五年(1194年)七月甲子条には「尊皇帝為太上皇帝、皇后為壽仁太上皇后」とある。

脚注
  1. 「晏駕」とは崩御のことである。 []
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