西暦8年か9年かで揺れる新王朝の開始年
前漢の末期に権力を握った王莽󠄁は、自ら皇帝の位につき新を国号とした。
この王莽󠄁の新は、西暦何年から始まったのだろうか。歴史書や辞典のたぐいを見ると、西暦8年から始まったとするものと西暦9年から始まったとするものに分かれている。
- 西暦8年から始まったとするもの
- 小川 (1902:27) は西暦8年に王莽󠄁が「遂に帝位を奪ひ、自ら新皇帝と称す」と記している。
- 橋本 (1940:490) は「翌八年二月に至り、天下再び平安に復することが出来たのである。(中略)ついで、同年十二月、王莽󠄁は遂に符命と称して真天子の位に上り、孺子嬰の帝位を廃して定安公となし、更に符命に従つて漢号を去り、別に国号を建てゝ新と号した」と記している。
- 渡邉 (2019:271) は年表において、「王莽󠄁が新を建国し、即位」を西暦8年としている。
- 西暦9年から始まったとするもの
- Bielenstein (1986:231) は王莽󠄁が9年1月10日に即位し、自らの王朝を新としたと記している。
- Knechtges (2010:116) では新王朝の年代について 9–23 と記している。
- 両者が混在しているもの
- 鶴間 (2004:471) は年表において、「王莽󠄁、皇帝と称し国号を新とする」を西暦8年としている。しかし、同書の317ページでは、「この王莽󠄁は前後漢の劉氏王朝の間にはさまれたわずか一五年(九—二三。一四年九ヵ月)の王朝を建てた。」と書いており、西暦9年から新が始まったとしている。
- 『全訳漢辞海 第4版』の「新」という字の語釈には「王朝名。前漢末に王莽󠄁が帝位を簒奪して建てたが、十五年で滅亡する。(八—二三年)」(655ページ)という記述があり、西暦8年から始まったとしている。しかし、同書の付録の年表(1753ページ)では「王莽󠄁、帝位に即き、新を建国。」を西暦9年としている [1] 。
西暦8年と西暦9年のどちらかが間違っているのだろうか。結論から言うと、おそらくどちらも間違いではない。2つの年が出てきてしまっているのは、中国暦を西暦に換算するときの考え方の違いによると思われる。
西暦9年とする際の考え方
『漢書』の「王莽󠄁伝」によると、王莽󠄁は初始元年十一月戊辰日に即位し、天下の号を新とした [2]。ここでの戊辰は日を表す干支で「初始元年十一月戊辰日」は初始元年十一月二十五日に当たる。そして、初始元年十一月二十五日は、西暦9年1月10日に相当する。
西暦9年のある1日に王莽󠄁が即位して、国号が新になったたのだから、新王朝は西暦9年から始まったと考えるのだ。
西暦8年とする際の考え方
さて、前述のように王莽󠄁が即位したのは、初始元年である。この年の干支は戊辰である。この戊辰年の正月一日は、西暦8年1月27日に当たる。そして、この戊辰年の大半の期間は西暦8年に相当する。具体的に言うと、この戊辰年の十一月十五日までは西暦8年、十一月十六日からは西暦9年である。王莽󠄁が即位したこの戊辰年はほぼ西暦8年なので、新王朝は西暦8年から始まったと考えるのだ。
王莽󠄁が即位した戊辰年の年号は、正月一日の時点では居摂三年であった。その後、十一月二十一日に改元が行われ、初始元年となった [3] 。さらに、同月二十五日の王莽󠄁の即位の際に、十二月一日を翌年の正月一日とすることとなった [4] ので、戊辰年は十一月いっぱいで終わることとなった。
西暦(ユリウス暦) | 中国暦 | 年の干支 | 日の干支 | できごと |
---|---|---|---|---|
8年1月27日 | 居摂三年一月一日 | 戊辰 | 己卯 | |
中略 | ||||
8年12月16日 | 居摂三年十月三十日 | 戊辰 | 癸卯 | |
8年12月17日 | 居摂三年十一月一日 | 戊辰 | 甲辰 | |
中略 | ||||
8年12月31日 | 居摂三年十一月十五日 | 戊辰 | 戊午 | |
9年1月1日 | 居摂三年十一月十六日 | 戊辰 | 己未 | |
中略 | ||||
9年1月5日 | 居摂三年十一月二十日 | 戊辰 | 癸亥 | |
9年1月6日 | 初始元年十一月二十一日 | 戊辰 | 甲子 | 居摂三年を初始元年とする。 |
中略 | ||||
9年1月10日 | 初始元年十一月二十五日 | 戊辰 | 戊辰 | 王莽󠄁、即位。国号を新とする。 |
中略 | ||||
9年1月14日 | 初始元年十一月二十九日 | 戊辰 | 壬申 | |
9年1月15日 | 始建国元年一月一日 | 己巳 | 癸酉 | 十二月一日をもって始建国元年一月一日とする。 |
参考文献
- Bielenstein, H. (1986). Wang Mang, the restoration of the Han dynasty, and Later Han. In D. Twitchett & M. Loewe (Eds.), The Cambridge History of China Volume 1: The Ch’in and Han Empires, 221 B.C.–A.D. 220 (pp. 223-290). Cambridge University Press. doi:10.1017/CHOL9780521243278.005
- Knechtges, D. (2010). From the Eastern Han through the Western Jin (AD 25–317). In K. Chang & S. Owen (Eds.), The Cambridge History of Chinese Literature (pp. 116-198). Cambridge University Press. doi:10.1017/CHOL9780521855587.004
- 小川銀次郎.(1902). 『中学東洋史』金港堂.
- 橋本増吉.(1940). 『東洋古代史』平凡社.
- 鶴間和幸.(2004). 『中国の歴史 03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』講談社.
- 渡邉義浩.(2019). 『漢帝国――400年の興亡』中央公論新社.
脚注