はじめに
戦前の日本の小学校では、道徳教育をになう科目として「修身」というものがあった。修身では、国家のためになる良き国民を育てることが目標とされた。
その修身の国定教科書の中に、どう選挙に参加すべきかについて説明している文章があるので、これを紹介したいと思う。今回紹介する文章は、昭和14年(1939年)に発行された小学6年生向けの教科書に載っているもので、「国民の務め(其の三)」というタイトルがついている。内容としては、戦前の議会の仕組み、選挙に参加するときの心構え、議員が公益のために働くべきことが書かれている。
それでは、実際の文章を読んでみよう。
凡例
ここで紹介するのは、『尋常小学修身書 児童用 巻6』の68ページから71ページにかけて掲載されている「第十五 国民の務め(その三)」の全文である。
底本としては、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている『尋常小学修身書 児童用 巻6』を用いた。これは、文部省の著作によるもので、昭和14年(1939年)に発行された。いわゆる国定第4期の修身教科書の1冊であり、尋常小学校六年生向けの教科書である。
「新字新仮名版(注釈付き)」に関して
- 漢字はいわゆる新字体に改めた。
- 仮名づかいは、現代仮名づかいに改めた。また、踊り字は、仮名に置き換えた。
- 「又」や「其の」を「また」や「その」に改めるなど、底本で漢字であったものを適宜平仮名に改めた。
- 送り仮名は現代の通行の送り仮名に適宜改めた。
- 振り仮名は底本に載っているものによらず、適宜つけなおした。
- 注釈はすべて引用者が付したものである。
「旧字旧仮名版」に関して
- 漢字はなるべく原文の字体に近いものを用いた。
- 仮名づかいは原文のままとした。
- 振り仮名は底本に載っているものをそのまま付した。
新字新仮名版(注釈付き)
第十五 国民の務め(その三)
帝国議会は憲法 [1] の規定によって毎年召集 [2] され、我が国の法律や予算などを審議して、大政に協賛 [3] する大切な機関であります。議会で議決したことは、天皇の御裁可 [4] を経て公布 [5] されます。
帝国議会は貴族院と衆議院から成り立っています。貴族院は皇族・華族 [6] の議員や勅任 [7] された議員で組織され、衆議院は選挙権をもっている国民 [8] が公選 [9] した議員で組織されています。
われらは、帝国議会の議員を選挙し、あるいはその議員に選挙されて [10] 、国の政治に参与 [11] することができます。帝国議会の議決は国の盛衰 [12] に関係しますから、したがって、その議員の適否 [13] は、国家・国民の幸不幸となります。それで議員を選挙するには、候補者の中から、性行 [14] がりっぱであり、よい考えをもっている人を選んで投票しなければなりません。自分だけの利益を考えて投票し、または他人にしいられて [15] 適任者と思わない人に投票してはなりません。また理由もないのに大切な選挙権を棄てて投票しないのは、選挙の趣旨にそむくものであります。
帝国議会の議員に選ばれたものは、その職責 [16] の重大なことを思い、かりそめにも [17] 私情に動かされず、利害にまどわされず、奉公 [18] の至誠 [19] をもって、その職責を果たさなければなりません。府県には府県会 [20] があり、市や町村には市会・町村会 [21] があって、それぞれ府県や市町村のきまりを設けたり、予算を定めたりして地方の繁栄をはかっております。府県会・市会・町村会の議員の職責も、帝国議会の議員の職責と同じように大切ですから、これを選挙する人も、選挙されて議員となった人も、奉公の精神をもってその務めをつくさなければなりません。
旧字旧仮名版
第十五 國民の務(其の三)
帝國議會は憲法の規定によつて毎年召集され、我が國の法律や豫算などを審議して、大政に協賛する大切な機關であります。議會で議決したことは、天皇の御裁可を經て公布されます。
帝國議會は貴族院と衆議院から成立つてゐます。貴族院は皇族・華族の議員や勅任された議員で組織され、衆議院は選擧權をもつてゐる國民が公選した議員で組織されてゐます。
我等は、帝國議會の議員を選擧し、或は其の議員に選擧されて、國の政治に參與することが出來ます。帝國議會の議決は國の盛衰に關係しますから、したがつて、其の議員の適否は、國家・國民の幸不幸となります。それで議員を選擧するには、候補者の中から、性行がりつぱであり、よい考をもつてゐる人を選んで投票しなければなりません。自分だけの利益を考へて投票し、又は他人に強ひられて適任者と思はない人に投票してはなりません。又理由もないのに大切な選擧権を棄てて投票しないのは、選擧の趣旨にそむくものであります。
帝國議會の議員に選ばれた者は、其の職責の重大なことを思ひ、かりそめにも私情に動かされず、利害にまどはされず、奉公の至誠を以て、其の職責を果さなければなりません。府縣には府縣會があり、市や町村には市會・町村會があつて、それ〴〵府縣や市町村のきまりを設けたり、豫算を定めたりして地方の繁榮をはかつて居ります。府縣會・市會・町村會の議員の職責も、帝國議會の議員の職責と同じやうに大切ですから、これを選擧する人も、選擧されて議員となつた人も、奉公の精神を以て其の務を盡くさなければなりません。
時代背景の解説
この教科書が発行された昭和14年(1939年)、日本の議会政治は崩壊しつつあった。昭和7年(1932年)には五・一五事件が発生して、政党内閣が終了した。昭和15年(1940年)には斎藤隆夫・衆議院議員が軍部批判の演説をしたために、3月に議員を除名された。同じ年には、政党が次々と解散し、各党の議員は10月に成立した大政翼賛会に合流した。そして、昭和17年(1942年)に実施された第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)では、翼賛政治体制協議会からの推薦を受けなかった候補者に対しては、政府がさまざまな干渉を実施し、その選挙を妨害した。選挙民は、選択を狭められ、適任ではないかもしれない人に投票することをある意味でしいられたのである。
この教科書で学んだ小学6年生が実際に国政選挙で投票したのは、早くても昭和24年(1949年)の第24回衆議院議員総選挙だろう [22] 。この総選挙は、戦後制定された日本国憲法のもとでの最初の総選挙である。このときには、新憲法のもとで、日本の民主主義はだいぶ回復していた。そして、選挙民は国の主人公として、自らが信じるりっぱな人に自らの意思で投票できるようになっていたのである。
- 憲法:ここでは、明治22年(1889年)に発布された大日本帝国憲法のことを指す。 [↩]
- 召集:議会を開くために、議員を呼び集めること。大日本帝国憲法第41条に「帝国議会ハ毎年之ヲ召集ス」(帝国議会は毎年召集する)と規定されており、年に1回は帝国議会に議員が集まって法律や予算などの審議をした。 [↩]
- 大政に協賛:天皇が中心となって行う政治を助けること。大日本帝国憲法のもとでは、法を定めるのはあくまでも天皇であって、帝国議会は天皇が法を定めるのを助けるに過ぎなかった。ただし、帝国議会が決めた法律案を天皇が拒否したことはないため、実質的には帝国議会が法を定めていた。 [↩]
- 御裁可:天皇が法律案などを承認すること。 [↩]
- 公布:広く一般に知らせること。 [↩]
- 華族:明治から昭和22年(1947年)まで存在していた特権的な身分。 [↩]
- 勅任:天皇の命令で任命されること。 [↩]
- 選挙権をもっている国民:昭和14年(1939年)当時は、25歳以上の男性だけが選挙権をもって、投票することができた。女性はまだ選挙権をもっていなかった。 [↩]
- 公選:有権者が選挙することで、議員を選ぶこと。 [↩]
- その議員に選挙されて:選挙に立候補した上で、その選挙に当選して、議員になること。 [↩]
- 参与:参加してたずさわること。 [↩]
- 盛衰:繁栄することと衰えること。 [↩]
- 適否:ここでは、議員として適しているかどうかという意味。 [↩]
- 性行:性格と行動。 [↩]
- しいられて:強制されて。 [↩]
- 職責:仕事の責任。 [↩]
- かりそめにも:けっして。 [↩]
- 奉公:国のためにつくすこと。 [↩]
- 至誠:まごころ。 [↩]
- 府県会:府や県に置かれた議会。現在の都道府県議会に相当する。(2016年10月9日:この文の脱字修正) [↩]
- 市会・町村会:市町村に置かれた議会。現在の市町村議会に相当する。 [↩]
- 昭和14年(1939年)の小学6年生が生まれたのは、基本的には昭和3年(1928年)である。この人たちが投票権を持つのは、20歳になった昭和23年(1948年)以降である。 [↩]