20年前、通っていた高校の近くで殺人事件があった話

概要
2002年10月25日に起きた殺人事件の話。

20年前の話

昔話になるが、今(2022年10月)から10年前、2002年10月25日の話をしたいと思う。

その日は、晴れていたと記憶している。秋晴れの時期である。何もなければ、そのへんをぶらぶら散歩するのに適した天気であったと思う。その頃、私は東京・世田谷区と目黒区の境目にある高校の3年生だった。朝の授業は、8時半からであった。1限は、確か、古文のS先生の源氏物語の授業だったはずだ。2回に1回、源氏の文章に関する小テストをしていて、その日も朝から小テストだった気がする。この授業は文系の生徒向けのものだった。私の学年は文系の生徒よりも理系の生徒の方が多かったから、文系向けの授業は人数が少なめだった。だから、席には余裕があり、めいめいが好きな席を選んで座ることが出来た。そして、前の方の席に座ると、ヘビースモーカーのS先生の煙草のにおいが気になってしかたないので、私は、教壇から少し離れた席でテストを受けるようにしていた。その日も同じだったと思う。また、朝一番の授業ということもあり、何人かは遅れて教室にやってきた。これもいつもどおりのことである。

そんな日常のそばで、事件は起こった。高校の近くで、1人の代議士が殺されたのである。事件現場から高校までの距離はおよそ500メートル。走ればすぐ着く距離である。殺されたのは、石井紘基代議士。民主党——今から6年前の2016年にこの名前の党はなくなってしまった——所属の議員であった。なぜこの人が殺されたのかは、よく分からない。犯行の次の日につかまった犯人が語った殺害の「理由」が、いまいち信用できないものであったのである。政治的な背景を持つ暗殺だという話もあるが、直接的な証拠はなさそうである。今も遺族などが事件の真相を探るべく懸賞金を出しているが、事件の原因はおそらく永遠に闇の中だろう。

ともかくも、被害者は死に、犯人は逃走した。そして、何もしらない私はいつも通り授業を受けていた。

その日の日本史の授業は「自習」だった。担当のM教官(国立学校なので「教官」と呼んでいたのである)が出張とのことで、我々生徒には自習用のプリントが配られたと記憶している。日本近現代史の用語が「がうんたっち」や「とうすいけんかんぱん」のように仮名で書いており、それを漢字に直せというものであった。そのプリントをやらずにおしゃべりをしているものもいたし、受験が近いからと別の勉強をしていたものもいた。私はこういうパズルっぽいものがすきなので、日本史の教科書を見ながら、地道に埋めていった。そうこうしているうちに、やたらとヘリコプターのけたたましい音がしてきた。サイレンの音も聞こえた。何かあったようだが、何があったかは分からなかった。

すると、某先生(確か現代文のS先生だった気がするが、定かではない)が教室にやってきた。その時、某先生の口から、付近で事件があったこと、どうなるか分からないので外出しないようにすることなどが告げられた。某先生が去った後、私は同級のT君と担任の英語のS先生の部屋に行った。自習とは言え、授業中だから教室を出歩くのは本来問題であるはずなのだが、こうした事件があった日なので、あまり気にしていなかった。自習の教室は2階で、その教室の脇の階段を3階に上ってすぐのところが、担任のS先生——今から3年前に亡くなられてしまった——のオフィスである。S先生と相部屋のK先生はおらず(授業中だったのだろう)、雑然と本が積み上がった部屋の中には、S先生だけがいらした。S先生は、古い小さなブラウン管のテレビをつけていた。テレビには、刺殺事件のニュースが流れていた。同級のT君が、いつものシニカルな口調で、「これからどうなるんですかね」と言った。S先生は「職員会議をして対応を協議するけれども、君達をちゃんと下校させられるかは分からない」といったことをお話されたと思う。

そして、いつも通りの昼休みがやってきて、いつも通り弁当を食べながら級友とカードゲームに興じた。犯人が逃げ回っていて怖いとは思わなかったし、かといって犯人をつかまえてやろうとも思わなかった。無関心と言えば無関心だった。あるいは殺人という事象に対して実感がわかなかったために、無関心のようにみえたのかもしれない。

一応、学校の門は固く閉ざされていた。遅刻して11時頃にやってきた級友は、門が閉ざされていたために入れなかったという。とはいえ、門も壁もさほど高くはなかった。犯人が乗り越えようと思えば簡単に乗り越えられただろう。

午後、ホームルーム。担任のS先生からの伝達。今日は部活などで残らずに速やかに帰ること、駅までの道筋には教員が立って見張っていることなどが伝えられた。というわけで、いつも通り、学校を出て家に向かう。こういうときは、集団で下校させてもよいはずなのだが、生徒は三三両両と帰っていた。その辺もうちの学校らしいと思ったが。校門を出て少し進むと、現代文のS先生が棒をもって立っておられた。言葉は交わさず、会釈だけをした。ないよりましと言えば、ないよりましなのだが、殺人犯に対して、棒きれが役に立つものだろうかと思った。

あれから20年、今年は奈良で現役の代議士が銃殺された。その追悼演説は2022年10月25日、くしくも石井代議士の死から20年後である。今年の銃殺事件に至った原因は旧統一協会の問題があったと言われている。その統一協会の問題に、石井代議士は生前取り組んでいたという。別に何かつながりがあると言いたいわけでは。ただ、20年という時を経て、似たキーワードが出てくることに何だか寂寞たる感を覚えるのである。冬の訪れを告げる北風の音を聞きながら。

補:事件から10年後、今から10年前に書いたメモ

今日(2012年10月25日)は昼前に時間があったので、石井代議士の殺害現場の方まで足を伸ばしてみた。とはいえ、正確な場所は覚えていない。何しろ10年前のことであるし、事件当日はその場所に行かなかったから、よく分からないのである。ともかく、都立国際高校の裏側の多分この辺であろうというところにまで行った。命日だからと言って、花が供えられているということはなかった。昼間は静かな住宅街である。誰もここで人が殺されたとは思うまい。そして、現場から少し歩いたところ、静けさをやぶるように、上空からヘリコプターの音が聞こえた。何台もヘリコプターが飛んでいた10年前の今日と違って、1台だけだったが。そして、秋の冷たい風を感じた。

10年前というと、自民党の小泉内閣の頃である。石井代議士の所属する民主党は野党であったが、将来の政権獲得のために爪を研いでいた。それから、首相は6たび交代し、民主党は政権与党となった。10年前は、誰がこうなると予測したであろうか。昨10月24日に法相に復帰した滝実代議士は、当選5回の74歳。殺された石井代議士も生きていれば同じぐらいの当選回数・年齢である。あるいは大臣となっていたかもしれぬ。1人の生死が国政に大きな影響を与えるとは思わないが。

高校の校門(2012年10月25日撮影)
高校の校門(2012年10月25日撮影)