スターリンは死んだ――そして小物たちが残った

概要
映画『ザ・デス・オブ・スターリン』のレビュー。スターリンの死の前後の権力闘争を描いたこの映画は、ソ連の権力中枢を小物たちの集合体のように描き、コミカルさをうまく演出している。

はじめに

その思想・行動に賛否両論があるにせよ、スターリンが20世紀の政治人物の中で「大物」であることに異議を申し立てる人は少ないだろう。それでは、その大物が死んだ後に残されるのは何だろうか? その答えは、大物の周りにいた有象無象の小物たちだ――それが映画『ザ・デス・オブ・スターリン』(The Death of Stalin) の出した答えだろう。

スターリンの死後、ソ連の権力者たちはどうするのか?
スターリンの死後、ソ連の権力者たちはどうするのか? [1]

『ザ・デス・オブ・スターリン』という映画はスターリンの死の前後ソビエト連邦の権力中枢に巣くう小物たちコメディタッチで描いた作品である。この作品の中では、マレンコフ・ベリヤ・フルシチョフといった面々がスターリンの死によって振り回される姿が描かれる。その姿は、まさに小物と呼ぶのにふさわしく、超大国の権力を握る人物のようには思えない。このギャップがこの映画を面白くしているところである。

なお、2018年4月6日現在、この映画は日本では公開されていない。

私は未読だが、この映画の原作はフランスのグラフィックノベル(一種の劇画)で、La mort de Staline(スターリンの死)というタイトルのものである。原作の英語版として、The Death of Stalin というものも出ている。

また、YouTubeでこの映画の予告編が公開されている。

以下、この映画のストーリーについて簡単に紹介したあと、この映画のコミカルさについて説明してみたいと思う。

ストーリー

映画はスターリンが倒れる前夜から始まる。まず、スターリンの気まぐれにより、ピアニストのマリヤ・ユーディナをはじめとして、様々な人が巻き込まれる様子が描かれる。しかし、この気まぐれの結果、スターリンは意識不明となってしまう。

スターリンが倒れると、ラヴレンチー・ベリヤをはじめとしたスターリンの腰巾着たちは態度を一変させる。ソ連の権力中枢で、スターリンに忠実に仕えてきたかのように見えた人々が、自らの利益を得るためにスターリンとは離れた独自の行動を行いはじめたのだ。そして、スターリンは死に、葬式が開かれる。これと並行して権力闘争が行われる。その過程の中で、ニキータ・フルシチョフゲオルギー・ジューコフ元帥などの手を借りてベリヤを排除する。最終的にはベリヤが殺され、フルシチョフが権力を握るところで話が閉じられる。

史実との差異

先に触れたように、この映画は基本的に史実に沿った描写がなされている。しかし、登場人物のキャラ付けを行うためか、いささか誇張された描かれ方をすることもある。また、スターリンが倒れる「原因」となったマリヤ・ユーディナの行動も創作によるものであろう(彼女がどのような行動を取ったかについてはネタバレになるので詳しく書くのを避けておこう)。

また、話の流れを分かりやすくするためか、史実で時間がかかったことがすぐに終わったかのように描写されるなど、話が史実よりコンパクトにまとめられている向きがある。例えば、映画ではベリヤが権力の座から排除されてから間髪を入れずに処刑されるように描かれているが、史実ではもっと時間がかかっている。史実では、ベリヤがソ連共産党中央委員会の幹部会で逮捕されるのが1953年6月26日で、死刑となるのがそのおよそ半年後の12月23日である [2]

ギャップが生むコミカルさ

一般に、ギャップというものはしばしば可笑おかしさを導く。例えば、仏教の僧侶が法事で突然聖書を読みはじめたら、見ている人は可笑しさを感じうるだろう。医者が血を見るのを怖がっていたらそれも可笑しさを招きうるだろう。

権力中枢が小物であるギャップ

この映画が描いているコミカルさも、ギャップによって生じているところが大きいと思われる。その中で一番大きなところが、ソビエト連邦という超大国の権力中枢にいる人々がことごとく小物であるということだろう。

超大国を引っ張っていく立場にいるはずの人物なのに、スターリンという大物がいれば、それにこびへつらい、スターリンがいなくなれば、あくせくと自分の権力を広げる。そんな小物ばかりなのだ。しかも、登場人物は口癖のように f*cking と言っている。超大国の政治家にふさわしい堂々たる言葉で対応するのではなく、このような小物感にあふれる言葉をはなつのだ。

前景と後景のギャップ

また、この映画には、前景と後景のギャップというものもある。前景では権力者たちの権力闘争という主たるストーリーが進む。しかし、その後景では人々が粛清の憂き目――深夜に官憲に連れ去られたり、即決で銃殺されたり――に遭っているのだ [3] 。後景で描かれるテロルは本来とても悲惨な話であるはずだ。しかし、前景に移る小物たちと対比されると、そのギャップがコミカルに思えてくる。そして、後景のテロルを作り出しているのは、前景に移る小物の権力者たちなのだから、ますますもって皮肉なことである。

小物界の大物、そして残された真の大物?

テロルを作り出す小物の権力者の代表は、何と言ってもベリヤだろう。彼は、この映画の中で小物界の大物として、きわめて重要な小物ぶりを発揮する。ベリヤが小物らしく動くことで事態が進み、周りもそれに合わせて権力闘争を展開していくという点で、ほとんど主人公ではないかとも思われる。

大体、ベリヤのやり方は、史実からして小物くささが強い。スターリンのもとで忠実に秘密警察のトップをつとめておきながら、スターリンが倒れるや治療させようとせずに放置する。愛人がたくさんいる上に、女子学生を拉致させて自分の元に連れてこさせて強姦したりする。権力の座から排除された後に、女子学生強姦について訊問されれば、「結婚も考えていたくらいだ」と言う [4]

また、史実では、大戦中の英雄であるジューコフ元帥が、スターリンが倒れた後のベリヤについて「彼がたくみにスターリンのご機嫌取りをするさまも、スターリンに都合が悪い者は誰でもいつでもスターリンの通る道から排除するつもりでいるのも見てきた。だがその彼がいまや、真のレーニン派ボリシェヴィキのふりをしていた」と回想している [5] 。この回想に記されたような様子を誇張した感じで、映画の中ではベリヤが小物として描かれているのである。

ところで、そのこの映画において、スターリンの死後に残された唯一の大物は、ここで触れたジューコフ元帥のみかもしれない。彼は、他の権力者と違って、例外的に堂々とした人物として描かれている。(ただ、周りと違って堂々としているがために、かえって浮いてしまってコミカルに見える面はある。)

史実通りとは言え、その真の大物であるジューコフが小物界の大物であるベリヤを逮捕したのはなかなか象徴的な話であると思う。

短いコントならば、小物界の大物が暴れ回ってそのまま何も起きないという結末も可能であろう。ただ、それなりの長さがある映画であり、史実に即した作品である以上、小物界の大物をそのままにしては後味が悪くなる。その意味で、小物界の大物が大物に排除されて終わるというのは、話がすっきりと終わることにつながっていると思う。

脚注
  1. Flickr上の Nicolas Raymond 氏が作成したCC BY 2.0画像を一部加工して使用。 []
  2. 稲子恒夫〔編著〕.(2007). 『ロシアの20世紀――年表・資料・分析』東京:東洋書店.pp. 575–577 []
  3. 粛清と言えば、この映画でマレンコフ役を務めた人物がセクハラをしていたために、映画のポスターから消されるということがあったそうだ。「スターリン映画ポスターで「粛清」 セクハラ疑惑の俳優が姿消す」という記事を参照のこと。 []
  4. 和田春樹.(2016). 『スターリン批判1953~56年』東京:作品社. p.171 []
  5. 和田春樹.(2016). 『スターリン批判1953~56年』東京:作品社. p.63 []