映画『帰ってきたヒトラー』の巧みなところと残念なところ

概要
ヒトラーが現代に再び現れたという設定の映画『帰ってきたヒトラー』の批評。全般的に言って、ドキュメンタリータッチの原作小説との比較を通じ、映像化の際の困難についても論じる。

はじめに

帰ってきたヒトラー』という映画を見てきたので、この映画の感想を記しておきたいと思う。私の感想を一言で言えば、「前半は名作、後半は駄作」である。前半はうまく描写できていたのに、後半は話が乱雑であった。

映画の基本情報

映画『帰ってきたヒトラー』は、2012年に出版された同名のドイツの小説『帰ってきたヒトラー』(原題:Er ist wieder da)をもとに作られたドイツ映画である。デヴィット・ヴェント氏が監督を務めている。ドイツでは2015年に公開され、日本では2016年6月から字幕付きで公開されている。

原作小説

原作の小説 Er ist wieder da は2012年に出版され、ドイツでは200万冊売れたそうである [1]

日本語訳は2014年に河出書房新社から『帰ってきたヒトラー』というタイトルで2冊で出された。その後、2016年に同社から文庫版として、『帰ってきたヒトラー 上』と『帰ってきたヒトラー 下』の2冊が出ている。

なお、本ブログにおいて、原作小説の批評として「『帰ってきたヒトラー』と一人称の語りの恐怖」というものを載せてあるので、興味がある方はご覧いただきたい。

映画のあらすじ

ヒトラーの死を報じる1945年の新聞
ヒトラーの死を報じる1945年の新聞

この映画は、原作小説と同じく、1945年にベルリンで死んだはずのアドルフ・ヒトラーがなぜか現代のベルリンに現れるというところから始まる。なお、基本的に劇中において、周囲の人間はヒトラーをあのヒトラー本人だとは思わず、ヒトラーにそっくりな芸人と見なしている。

ヒトラーが現代に復活したシーンの後は、大まかに言って、前半と後半の2部に分かれる。前半は、ヒトラーがドイツ各地をめぐり、一般人と対話を行うドキュメンタリータッチの映像となっている。これに対して、後半はヒトラーがテレビ番組に出演し、ショービジネスでのし上がるというドラマになっている。

原作小説においては、ヒトラーがドイツ各地を回っていることが示唆されているが、そのことに大きくページが割かれているわけではない。むしろ、原作小説においては、映画の後半に相当するショービジネスでヒトラーがのし上がっていく様子の描写の比重が大きい。逆に言うと、映画は、原作小説に比べると、ドイツ各地の一般人との対話を描写することを重視し、ヒトラーがショービジネスでのし上がっていく様子の描写を薄くした形になっている。

前半:ヒトラーと一般人の対話

先に触れたように、この映画の前半は、現代に現れたヒトラーがドイツ各地の一般人と対話を行うドキュメンタリータッチの映像になっている。

ヒトラーはヒトラーとしてふるまい、ドイツ各地の一般人と対話することで、大衆の本音を引き出そうとする。大衆からは、民主主義政治に対する不満、移民に対する不平、異人種に対する不信が並べ立てられる。こうした大衆の不平不満は、ほとんどが政治的に「適切」でないものである。例えば、民主主義政治は無意味だと言ったり、異人種の知能が低いと言ったりするなど、公の場で大声で言えるようなものではない。だが、大衆はこうした考えを本音として持っている。そして、それはまさに史実のヒトラーがかつて大衆から引き出そうとした言葉である。

このように本音を引き出す描写は、この映画の優れたところであると言えよう。大衆が心の中で抱いているある種のタブーを、タブー的な存在であるヒトラーという鍵を使って解き放つというのは、感銘すら覚える。

問題の発見方法に関する原作小説との違い

ここで、この映画の前半部分と、原作小説の違いについて少し触れておきたい。大まかに言えば、この映画の前半部分は、「聞いて引き出す」という形で、現代の問題をヒトラーが外発的に発見するものになっている。これに対して、原作小説では、「見て気付く」という形で、ヒトラーが内発的に発見するものになっている。

原作小説では、現代ドイツの状況をヒトラー自身が見て、ヒトラー自身の内省によって解釈がなされ、現代社会の問題があぶり出される。例えば、スターバックスの看板を見て文句を言うとか、学校に通う生徒の様子を見て色々と(現代人からすると的外れなところもある)指摘をするといった形だ。

これに対して、映画の前半部分では、少なくとも表面的には、一般人が現代社会の問題に関して語り、それをヒトラーが聞き入れるという形になっている。ここでのヒトラーは産婆役に過ぎず、ヒトラー自身の感覚によって問題をあぶり出しているわけではない。

このことは、この作品で挙げられる現代の問題に「説得力」を持たせるものになっている。原作小説はあくまでもヒトラーの内省によって挙げられる問題であり、ヒトラーがまともな人間でないと思っている人にとっては、受け入れにくいものである。これに対して、映画では表面的には一般人の言葉として語られる。このため、ヒトラー自身が発した言葉よりは受け入れやすいものとなっている。とは言え、ここでの一般人の言葉というのはヒトラーの代弁的なものであり、これを受け入れることによって、知らず知らずのうちにヒトラーと近い考えを持つようになるのである。

後半:のし上がるヒトラー

映画の後半部分では、ヒトラーがテレビ番組に出演し、その後の紆余曲折はありながらも、ショービジネスの世界でのし上がっていったことが描かれている。先に触れたように、この後半部分の出来はあまりよろしくない。

後半は、端的に言えば話が乱雑である。前半は大衆と対話するヒトラーという芯がはっきりしたものであったのに対し、後半は芯がない。後半ではテレビ局関係者を中心に登場人物が増え、場面も次々と切り替わる。

また、安易にこれ見よがしな笑いを持ってくるというところもいただけなかった。例えば、『ヒトラー 最期の12日間』でヒトラーが総統地下壕で怒りをまき散らすという有名なシーンがあるのだが、これのパロディーが唐突に入る。このパロディー自体は面白いと言えば面白いのだが、物語がだんだんと深刻になっていく流れからすると、この場で出してきたのは安易にすぎると思われる。

それまでは重い話をしていたのに、突然、これ見よがしな笑いで軽い話を展開するのだ。映画を見る人が作品世界に慣れていない映画の前の方でこうした軽い話をするのは、観客を映画に引き込む際に有用であろう。だが、作品世界の異様さに慣れた後の方でこうした軽い話をするのは、かえって作品世界への慣れを観客から奪ってしまうだろう。

しかも、ストーリーとしては、後ろに行けば行くほど、ヒトラー以外の登場人物が「これはヒトラーにそっくりな芸人ではなく、まさしくヒトラー本人ではないか」という思いを抱くようになり、話が重く不気味になっていく。このストーリーが重くなっていくという流れにあらがうように、安易に軽い話を入れたのは、あまり良い選択とは言えないと私は思った。

一人称の語りと映像化の難しさ

原作小説は、ヒトラーによる一人称の語りで描写されている。つまり、ヒトラー自身が「私」の身の上に起こったことを語っていくというつくりになっている。読者は、ヒトラーの語りに乗って、ヒトラーの耳で聞き、ヒトラーでの目で見る形をとるのである。

この原作小説の一人称の語りを映像にするのはそもそも難しいことだと思われる。完全にヒトラーの視点から映像にした場合、ヒトラー自身の顔が見えなくなる。我々が普通に生きているとき、たえず鏡をたずさえているのでもなければ、自分の顔が見なくて済むのと同じである。

だが、もしヒトラーの顔が見えないような映像を作ったとすると、映画自体から大衆の興味を失わせるおそれがある。なぜかと言うと、ヒトラーという印象の強いキャラクターの造形を見せることができなくなるからだ。ヒトラーは長い間、大衆文化において戯画化された形で扱われてきた。あのチョビヒゲがムチャクチャなことを言うことで笑いをとるのだ。

大衆はヒトラーという歴史上は「危険」な人物を、戯画化された形で「安全」に見ることを期待している。ホラー映画を見る人は、現実にゾンビに襲われたいわけではなく、映画の中で飼い慣らされた仮想の恐怖を安全に見ることでカタルシスを得ようとしているのである。

ヒトラーに関する娯楽映画を見ようとしている人は、戯画化されたヒトラーを笑い飛ばせることを期待している。もしヒトラーの顔が見えないとしたら、笑い飛ばすことが難しくなる。こうなると、映画を見ようとする人の期待に応えることができず、興行的な人気を得ることは難しくなるだろう。そういった事態は、映画の制作側としても困ってしまうことだろう。

というわけで、映像にするときには、ヒトラーを外部からの視点で描かざるを得ない。印象的なチョビヒゲの人物を動かし、ときには非常にばかげた行動を見せることで、大衆に戯画化されたヒトラーを笑い飛ばす機会を与えるのである。

だが、これは原作小説が挑戦しようとしたヒトラーの一人称の語りから逸脱することになる。このことは、この作品の映像化が内包する本質的な矛盾である。映像としての面白さを重視すれば、ヒトラーの一人称という視点は失われるし、ヒトラーの一人称という視点を重視すれば、映像としての面白さが失われるのだ。

折衷的な解法

結局の所、映画『帰ってきたヒトラー』では、外部からの視点のヒトラーを中心に描きつつ、部分的にはヒトラーからの視点も取り入れるという折衷的な方法で映像化がなされている。全般的に言えば、ヒトラーは外部から映し出される存在としてこの映画の中で動いている。これに加えて、映画の冒頭やラストなどの要所ではヒトラーの独白が入り、この作品が本来ヒトラーの一人称の語りであることが示されている。また、いくつかの場面では、カメラがヒトラー視点のものに切り替わり、映画を見る人がヒトラーからの視点を擬似的に体験できるようになっている。ただ、こうした一人称としてのヒトラーの描写は、この映画の中では限定的で、ややもすれば表面的ですらある。特に、ヒトラーの内心の描写があまりできていない。原作小説では、地の文においてヒトラー自身が内心で考えていることが巧みに描写されているのだが、映画の方ではヒトラーの内心が見えてこないのである。

いずれにせよ、このような折衷的なやり方は、結局中途半端であることが否めない。どっちつかずのものであり、どう描写しようとするか訳が分からなくなるのである。

一人称の語りの代償としての一般人との対話

先に見たように、この映画の前半ではドキュメンタリータッチでヒトラーとドイツ各地の一般人との対話が描かれている。この一般人との対話が、実はヒトラーによる一人称の語りがうまく映像化できないことの代償となっているのではないかと私は考えている。

映画の前半部分の一般人との対話の場面では、先に触れたように、ヒトラーによって一般人の本音が引き出されている。ここで引き出された本音は、実にヒトラー的である。

つまり、一般人との対話を行わせることで、一般人の本音を通じて間接的にヒトラーの内心を見せつけているのである。また、ヒトラーと一般人との対話という形を一歩引いたところから映し出すという映像にしているために、ヒトラーというキャラクターの映像を見せることもできている。

要するに、ヒトラーと一般人との対話という映像を見せることで、ヒトラーからの視点を描くことと、ヒトラーを外部から映すことという2つの矛盾することを止揚した形で表現することができるのである。これは優れた試みであると言えよう。私が先に前半は名作だと言ったことの要因の1つは、ここにあるのだろう。

脚注
  1. Donaldio, R. (2015, May 4). ‘Look Who’s Back’: Germans Reflect on the Success of a Satire About Hitler. The New York Times. []