「3年やれば身につく」と中国古典

概要
中国古典の世界においても儒教の経典の修得の文脈で「3年やれば身につく」に似た議論がなされることがある。

はじめに

3年やれば身につく」、「就職したら3年間は頑張れ」といったことを述べる人がいる。もっとも、しっかりした根拠をもってこう述べている人はそれほどいないと思われる。

ただ、聞く方からすると、3年という期間はそれなりに納得できる長さであろう。特殊な伝統芸能でもなければ、「30年やれば身につく」ではいかにも長すぎる。逆に「就職したら3日間は頑張れ」ではさすがに短すぎる。3年という期間にはそれなりのもっともらしさがあるのだろう。

実は、中国古典においても、「3年やれば身につく」に似た話がいくつかある。以下、その例を紹介していきたい。

『法言』

前漢の揚雄による『法言』、すなわち、いわゆる『揚子法言』の「寡見」編に、以下の文がある。

古者之學耕且養、三年通一經。

〔書き下し文:古への学は耕しやしなひ、三年にして一経に通ず。〕

〔現代語訳:昔の学者は耕作をしながら学問を修得し、3年で1つの経典に通じた。〕

「法言・寡見」

つまり、昔の学者が3年で儒教の経典を1つ習得したことが述べられている。

『漢書』

後漢の班固による歴史書『漢書』の「藝文志」にも、ほぼ同じ話が載っている。

古之學者耕且養、三年而通一藝、存其大體、玩經文而已。是故用日少而畜德多、三十而五經立也。

〔書き下し文:古への学者は耕しやしなひ、三年にして一藝いちげいに通じ、其の大体を存し、経文をならふのみ。ゆゑに日を用ゐること少くしてたくはふる徳多く、三十にして五経立するなり。〕

〔現代語訳:昔の学者は耕作をしながら学問を修得し、3年で一藝に通じ、そのおおよそを把握して経文を十分に味わった。このため、費やした時間が短くても蓄積した徳は多くなり、30歳で五経がしっかり身についたのである。〕

「漢書・藝文志」

ここでの「藝」は単なる技能ではなく、儒教の経典のことを指している。なお、『晋書』の孔坦伝に載っている孔坦の太興3年(320年)の上奏文にも「古者且耕且學、三年而通一經」という一節がある。

『論語義疏』

『漢書』と同様の趣旨の話が、梁の皇侃おうかんが『論語』に対して付けた注釈である『論語義疏ぎそ』にも載っている。これは、『論語』の「為政」編で、孔子の一生を紹介した「十五にして学に志し、三十にして立つ」という有名な文に対する注釈である。

古人三年明一經、從十五至三十、是又十五年。故通五經之業、所以成立也。

〔書き下し文:古人三年に一経をあきらかにし、十五り三十に至るまで、また十五年。故に五経之業に通じ、以て成立する所なり。〕

〔現代語訳:昔の人は3年かけて1つの経書を明らかにした。(すなわち、一経あたり3年かかるということは五経には15年かかるということになる。孔子が学に志したという)15歳から(孔子が独り立ちしたという)30歳までの期間もまた15年である。だから、(15年をかけて)五経の業に精通し、一人前になった。〕

『論語義疏』

ここでも、3年で儒教の経典を1つ修得するという話になっている。なお、この注釈は本当は変である。「五経」という形でまとめて儒教の基本経典にしたのは、孔子が死んで相当の時間が経った後の前漢の話だからだ。だから、若いころの孔子が五経を15年かけて学ぶというのは時代の順序がおかしい。

とは言え、皇侃の時代には、「経典を3年やれば身につく」という話はそんなに違和感はなかったのだろう。そして、だからこそ、このような注を入れたのだろう。

「效進士作三年通一経」

また、かなり時代は下るが、南宋の呂祖謙に「效進士作三年通一経」という詩がある。その冒頭は以下のようになっている。

歲月去如矢、橫經徒慨然。誰能通一藝、真不負三年。

〔書き下し文:歳月の去ること矢のごとく、経をよこたへいたづらに慨然たり。誰かく一藝に通ずること、真に三年をはざらん。〕

〔現代語訳:年月が過ぎ去るのは矢のよう(に速く)、経書を横にしてむなしく嘆き悲しむ。誰が一芸に通じるのに本当に3年を費やさないことがあるのだろうか。〕

呂祖謙「效進士作三年通一経」

『論語』

「3年やれば身につく」という話ではないが、『論語』にも「3年やればこうなる」といった話がいくつか載っている。

『論語』の「泰伯」編には、孔子の言葉として、以下のようなものがある。

三年學、不至於穀、不易得也。

〔書き下し文:三年学びて、穀に至らざるは、やすからざるなり。〕

「論語・泰伯」

この言葉の解釈には色々なものがあるが、ここでは朱子の注に従って、「3年学んで俸禄を求めないような人は、なかなかいないものである」と解しておく。

また、「先進」編では、孔子が弟子たちに対してやりたいことを問うシーンがある。そこで、孔子の弟子の子路は、一国の政治をつかさどりたいという希望を述べる。そして、子路は、自分が政治をつかさどれば、3年ですごい国にするということを語る [1] 。具体的には、以下のように記されている。

比及三年、可使有勇、且知方也。

〔書き下し文:ころほひ三年に及ばば、勇有りてつ方を知らしむべきなり。〕

〔現代語訳:3年あれば、(その国を)いさましくし、よるべき方法を知っている状態にすることができるでしょう。〕

「論語・先進」

これに対して、孔子はほほえむことで答えた [2] 。ただ、後文に出てくる他の弟子に対する反応と比べると、孔子としてはあまり子路の希望に共鳴しなかったように見える。

しかし、『論語』の別の箇所では、孔子が先ほどの子路と同じようなことを言っている。すなわち、「子路」編において、孔子の言葉として以下のものがある。

苟有用我者、期月而已可也、三年有成。

〔書き下し文:いやしくも我を用ゐる者有らば、期月のみにても可にして、三年にして成すこと有らん。〕

〔現代語訳:私を(政治に)使ってくれる人がいれば、たった1年で(政治が)よろしくなり、3年で立派なものにしてみせるのに。〕

「論語・子路」

孔子と子路という師弟が、結局は同じようなことを言っているのがなかなか面白いところである。

脚注
  1. なお、この子路の言葉に続けて、冉有も3年で民が満足のいくようにすることができるということを述べている。 []
  2. 「哂」という字は、あざけ笑うという意味もあるが、ここでは朱子の注に従って「ほほえむ」と捉えておく。 []