作品のあらすじ
この記事は『帰ってきたヒトラー』の原作小説についての批評です。この小説を元にした映画『帰ってきたヒトラー』の批評については「映画『帰ってきたヒトラー』の巧みなところと残念なところ」という記事をご覧下さい。
ティムール・ヴェルメシュが書いた『帰ってきたヒトラー』という風刺小説について紹介していきたい。まずは、この作品のあらすじを説明した後に、この作品の描写の特徴――この特徴がこの作品の面白さに関係している――について見ていきたいと思う。
『帰ってきたヒトラー』は2012年にドイツで発表された小説である。2014年3月付けのガーディアンの記事 [1] によると、ドイツでは書籍とオーディオブックが合わせて140万部売れたという。森内薫が訳した日本語版が、2014年に上下二巻で出版されている。
この作品は、1945年に死んだはずのアドルフ・ヒトラーがなぜか2011年のドイツに現れるというシーンから始まる。2011年に現れたヒトラーは、人々からヒトラー本人であると信じてもらえず、ヒトラーになりきっているコメディアンだと思われてしまう。
その後、ヒトラーはコメディアンとしてテレビプロダクション会社に採用される。ただし、ヒトラー本人はコメディアンとして採用されたと思っておらず、自らの政治的主張を宣伝するために、事務所や秘書を提供されたと思っている。
さらに、ヒトラーはコメディアンとしてテレビ番組に出演することになる。そこでヒトラーはかつての自分の政治的主張をおなじみの口調で繰り返すだけであった。しかし、周りの人はコメディアンがヒトラーに扮して社会をするどく風刺していると見なして喝采する。
そして、ヒトラーは現代世界でますます人気になっていく。そして現代社会における宣伝の方法を知り、活動の手を広げていく。これがこの作品のあらすじだ。
要するに、『帰ってきたヒトラー』はヒトラーが現代に現れたらどうなるかという思考実験的な作品なのである。ただ、この作品は、現代に現れたヒトラーという一発ネタだけで構成されている作品ではない。この作品には巧みな描写が用いられており、それがこの作品に深みを与えている。このことについて、以下で詳しく見ていきたい。
ヒトラーの扱いにくさ
アドルフ・ヒトラーがベルリンの総統地下壕で自殺したのは1945年4月30日だから、既に70年が経ったことになる。このように長い時間が過ぎたにも関わらず、ヒトラーの扱いにくさは代わっていない。ヒトラーが引き起こした人権侵害、戦争、そして虐殺は悲惨としか言いようがないものであった。このため、ヒトラーを肯定的に扱うことはタブーとなった。そして、たとえ肯定的に扱うわけでなくとも、ヒトラーという人物について触れたり、描写したりすることも難しくなった。
ドイツのバイエルン州は、ヒトラーの主著『我が闘争』をヒトラーに対する批判的注釈を付して出版する予定であったが、州は出版から手を退くこととなった [2] 。バイエルン州はヒトラーを称揚しようとして出版を計画したわけではなく、むしろヒトラーの誤りを指摘するために出版を計画していた。しかし、それでも出版からは手を退くこととなったのである。
こうした中で、ヒトラーを描く文芸作品を出すことは非常な困難を伴う。ややもすれば、ヒトラーを賞賛する悪魔的作品として見なされてしまうのだ。相当うまく描かなければ作品として成功しないのである。
このような場合、どうすれば良いか。ヒトラーを賞賛しているわけではないということを示すために、徹底的にヒトラーを戯画化すれば良いのである。尊敬される対象ではなく、笑い飛ばされる対象とすることで、ヒトラーを描く際の危険を回避できるのである。
戯画化されるヒトラー
ヒトラーはしばしば戯画化されてきた。彼の生前にすでにチャーリー・チャップリンの映画『独裁者』で戯画化されている。
イギリスBBCのコメディ番組『モンティパイソン』には、イギリスで選挙に出るヒトラーを描いたスケッチがあり、そこでヒトラーは数人の子どもに対して絶叫を伴う演説を行うなど徹底的に戯画化されている。また、ブロードウェイのミュージカル『プロデューサーズ』の劇中劇に登場するヒトラーはステレオタイプ的なオカマのように扱われている。
『帰ってきたヒトラー』もヒトラーを戯画化するというセオリーを踏んでいる。この作品の冒頭にあるヒトラーの心中のモノローグを引用しよう。ものすごい勢いで述べられているが、言っていることは論理性に欠けたバカバカしい内容である。
ここで、ヒトラーはドアノブのようなどうでもよいことに対してこだわってしまっている異常者である。このようにバカバカしいことしか考えられない異常者としてヒトラーが戯画化されているのである。
読者は、戯画化されたヒトラーを見ることによって、笑うことができる。そして、笑うことができることによって安心することができる。読者はこう思うのだ――自分はヒトラーを笑い飛ばせる人間なのだ。決してヒトラーに共感する異常者ではない。ヒトラーを称揚する社会のゴミではない――といったようにだ。
だが、『帰ってきたヒトラー』の描写は巧みである。「ヒトラーを笑い飛ばせる」ということが、徐々に「ヒトラーとして笑うことができる」にすり替えられていくのである。すり替えの秘密は、この作品の語りの人称にある。
「彼」は再びそこにいる?
この作品のドイツ語の原題は、Er ist wieder da である。これを文字通りに訳せば「彼は再びそこにいる」になる。タイトルの上では、「彼」という三人称が用いられている。日本語のタイトルも『帰ってきたヒトラー』であり、三人称としての「ヒトラー」が用いられている。
だが、この作品は歴史書のようにヒトラーを三人称的に描いたものではない。つまり、作品の語り手が、ヒトラーのことを「彼」と呼んでいるわけではないのだ。
実際には、この作品はヒトラーの一人称の語りによってつむがれている。つまり、ヒトラーが語り手となっているのである。例えば、ヒトラーが2011年のベルリンに現れたばかりのシーンは次のように描写されている。
作中にある「私」とはヒトラーのことである。「私=ヒトラー」という関係が成り立っているのだ。
「私」という言葉が使われることは、読者が自身をヒトラーと同一化しうるという危険な状況を呼び起こす。この作品を読むに当たって、読者はヒトラーの耳で聞き、ヒトラーの目で見る立場に追いやられるのである。そして、第三者としてヒトラーを笑い飛ばすのではなく、だんだんとヒトラーとして世界を嘲笑するようになっていくのだ。
作中でヒトラーが始めて現代のテレビ番組を見るシーンがある。そこで、ヒトラーはヒトラー自身の価値観から、現代のテレビ番組のおかしさについて指摘する。あくまでもヒトラー自身の価値観によるものなのだが、現代の読者も感じるであろうテレビ番組のおかしさを指摘している。ヒトラーの指摘の一例を見てみよう。
このヒトラーの指摘は、下らないテレビコマーシャルに閉口している現代人にも共感が得られる内容であろう。
共感。そう、共感なのだ。この作品は一人称の語りになっているために、ヒトラーに共感しうる形になっているのだ。
歴史上の人物としてのヒトラーの主張――東方に生存圏を打ち立てよ、ユダヤ人を絶滅させよ、といったたぐいの――に共感する現代人はそうそういないだろう [3] 。だが、下らないテレビコマーシャルに苦言を呈するという程度なら共感しうる。『帰ってきたヒトラー』におけるヒトラーは共感を誘う構造を持っているのである。
グローバル化と共感の容易さ
実は、ドイツから遠く離れた日本でも共感に誘われやすい状況になっている。それは、グローバル化が起きているためである。
現代に現れたヒトラーが見るドイツの事物は、ドイツ固有のものだけでなく、世界各地で共有されるものも少なくない。例えば、車に乗ったヒトラーは、町中がどこも同じように見えてしまう。その理由として、ヒトラーは「〈スターバック〉という人物が経営するコーヒー屋が町のそこかしこに何十軒もあるせいなのだ」(『帰ってきたヒトラー (上)』 p.102)と断じる。このコーヒー屋とは無論スターバックスコーヒーのことである。あちこちにあるスターバックスという状況は、ドイツだけでなく、世界の各地で見られることである。その点で、ドイツから遠く離れたところにいる人でも、ヒトラーに共感する端緒がある。
歴史上の人物の人物としてのヒトラーが生きていた時代は、現代ほどグローバル化が進んでいなかった。その意味で共感の端緒は少なかった。だが、現代は世界の各地で共通して知られているものが増えている。この作品の中に出てくるものとして、ユーチューブ、ウィキペディア、ロシアのプーチン大統領 [4] などがある。
このため、ヒトラーが作中で感じたことに共感することが容易になっているのだ。
共感に打ち勝つ
今まで見てきたように、『帰ってきたヒトラー』という作品は、一人称の語りを用いることで巧みにヒトラーへの共感を生み出すようになっている。だが、このことはヒトラーが現実の歴史でなしてきたことを正当化する目的によるものではない。
この作品において、読者はヒトラーへ共感し、そしてヒトラーの視点に立つように誘導される。このことは、良心的な現代人にとってはかなりの負荷である。この負荷から逃れるためには、ヒトラーの誘惑に打ち勝つ力が必要なのである。ただ単に「ヒトラーは悪魔だ」と信じて思考停止するようでは、打ち勝つことは難しい。「ヒトラーは悪魔だ」と信じる視点と、「ヒトラーは救世主だ」と狂信する視点はさほど遠くない。なぜヒトラーが行ってきたことが惨禍を呼び寄せたのか、なぜヒトラーは問題だったのかと考えた上でなければ、ヒトラーの視点に打ち勝てない。
そのことを踏まえて、政治や社会について深く洞察するように読者に求める――それこそがこの作品の目的ではないかと私は考える。
- The Guardian. (23 Mar. 2014). Germany asks: is it OK to laugh at Hitler? http://www.theguardian.com/books/2014/mar/23/germany-finally-poke-fun-hitler-fuhrer [↩]
- 朝日新聞デジタル. (2015年4月18日). 「(戦後70年)ナチスの禁書、出版巡り論争 恥か教訓か」 http://www.asahi.com/articles/ASH4J0THGH4HUTIL04K.html [↩]
- 例えば、『モンティパイソン』において、ヒトラーがイギリスで選挙に出るというスケッチでヒトラーは「ポーランドの併合」を公約として掲げている。だれも支持しないであろう政策を挙げることで、ヒトラーを戯画化しているのである。 [↩]
- プーチン大統領は直接名前が挙げられているわけではないが、国民に水着の姿を見せるロシアの指導者としてヒトラーによって挙げられている。 [↩]