衆議院解散時の詔書朗読と万歳のタイミング

概要
衆議院解散の際に解散詔書の朗読がどのように行われてきたかについて明治期から現代に至るまでの経過を説明する。解散詔書の朗読の慣行は大正期に確立し、戦後も似たような形式で朗読が行われている。ただし、戦後の10年間と、2014年の解散においては、慣行から外れた形式での朗読が見られる。

はじめに

日本では、衆議院解散される際に、衆議院本会議で衆議院議長が解散詔書しょうしょを朗読し、その後議員が万歳をするのが慣例となっている。しかし、この慣例は昔からあったわけではない。また、慣例と違う取り扱いをした場合もあった。今日は、帝国議会会議録国会会議録の記録などをもとに、衆議院解散の際に本会議で詔書がどう朗読されてきたかについて見ていきたいと思う。

なお、解散の詔書は、戦前・戦後を問わず、以下の要素で構成されている。

詔書の本文以外の要素を朗読するかしないかは、時代によって違うので、そこを注意して見ていくと良い。

以下、日本で議会政治が始まった明治期から現代に至るまで、時代を追って、衆議院解散詔書朗読の歴史を見ていこう。なお、結構な長文になるので、結論だけ先に知りたい人は、末尾の「まとめ」を読んでもらえればと思う。

明治期:詔書朗読方式の模索の時代

1889年に大日本帝国憲法が発布され、日本にも議会が設置されることになった。帝国憲法では、衆議院と貴族院をもって帝国議会を構成することになっていた。このうち、衆議院には解散があった。大日本帝国憲法の第7条では「天皇ハ帝國議會ヲ召集シ其ノ開會閉會停會及衆議院ノ解散ヲ命ス」 [1] と規定され、天皇が衆議院解散の権能を持つものとされた。そして、天皇が衆議院を解散する場合は、国務大臣の副署を経た詔書を出す必要があった。

明治期にはそもそも本会議で解散詔書が朗読されることがあまりなかった。明治時代には衆議院の解散が7回行われているが、本会議で詔書の朗読が行われたのは3回しかなかった。そして、詔書のどの部分を読むかについては、回によってばらばらであった。

帝国憲法下の最初の衆議院解散は1891年12月25日に行われたが、この時は本会議で解散詔書は朗読されていない。衆議院は、解散詔書が伝達される前にその日の議事を終え散会となっていた。

明治24年(1891年)12月25日に発せられた日本で初めての衆議院解散の詔書
明治24年(1891年)12月25日に発せられた日本で初めての衆議院解散の詔書 [2]

また、帝国憲法下で2回目の衆議院解散は1893年12月に行われたが、この時も本会議で解散詔書は朗読されていない。同年11月25日から第5議会が開かれていたが、12月29日に衆議院の停会が命じられ、30日に衆議院解散の詔書が出された。29日に停会が命じられていたため、衆議院の本会議を開くことができず、そこで解散の詔書が朗読されることもありえなかったのである。

帝国議会会議録を見る限り、初めて衆議院の本会議で解散詔書が朗読されたのは、1894年6月に行われた帝国憲法下で3回目の衆議院解散のときである。以下に示すように、詔書の本文、すなわち「朕帝國憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス」 [3] という文が朗読された後、「御名御璽」と詔書の日付が読み上げられている。会議録上では、議員が万歳をしたとは書かれていない。

○議長(楠本正隆君)先刻參內致シタル右ノ御沙汰ハ御報道申シタ次第デゴザイマス、唯今勅諚ガ下リマシテゴザイマス

〔議員一同起立〕

朕帝國憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス
御名 御璽
明治二十七年六月二日

第6回帝国議会衆議院本会議会議録(明治27年〔1894年〕6月2日)

その次の解散に当たる1897年の解散では、詔書の本文、「御名御璽」、詔書の日付の他に、詔書に副署した大臣の名前も朗読されている。つまり、詔書に書かれていることは全て読まれているのである。さらに、詔書の朗読が終わると、拍手と万歳が起きている。

○議長(鳩山和夫君)詔勅ガアリマスルカラ、御報道致シマス

朕帝國憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス
御名 御璽
明治三十年十二月二十五日
內閣總理大臣兼大藏大臣 伯爵松方正義
海軍大臣 侯爵西鄕從道
陸軍大臣 子爵高島鞆之助
內務大臣 伯爵樺山資紀
遞信大臣 子爵野村靖
司法大臣 淸浦奎吾
外務大臣 男爵西德二郞
文部大臣 濱尾新
農商務大臣 男爵山田信道

〔拍手起リ「萬歲」ト呼フ者アリ〕

第11回帝国議会衆議院本会議会議録(明治30年〔1897年〕12月25日)

ところが、次に衆議院で解散詔書の朗読が行われるときには、朗読が簡潔なものとなり、詔書の日付と副署した大臣の名前は読まれなくなる。

○議長(片岡健吉君)御異議ガナケレバ討論終結ニ致シマス――詔勅ガ參リマシタ

〔議員一同起立〕

○議長(片岡健吉君)詔勅ヲ讀上ゲマス

朕帝國憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス
御名 御璽

〔拍手起ル〕

第17回帝国議会衆議院本会議会議録(明治35年〔1902年〕12月28日)

大正期:詔書朗読の慣例確立の時代

大正に入ると、本会議で議長が解散詔書を朗読する場合、「御名御璽」の朗読を省略し、詔書の本文(「朕帝國憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス」)しか読まないようになる。そして、それが慣例として確立する。

また、明治期は解散詔書が衆議院の本会議で読まれなかったことの方が多かったのだが、大正に入るとほとんどの場合本会議で解散詔書が読まれるようになる。明治時代には衆議院の解散が7回行われているが、本会議で詔書の朗読が行われたのは先に述べた3回しかない。大正時代には衆議院の解散が4回行われているが、そのうち3回で本会議での詔書朗読が行われている [4] 。また、昭和に入ってから終戦までの間に、衆議院は5回解散されているが、そのうち4回で本会議での詔書朗読が行われている [5]

大正の最初の衆議院の解散では、以下のように本会議で解散詔書が朗読されている。

○議長(奧繁三郞君)過半數ト認メマス、仍テ委員長報吿通リ決シマシタ、諸君、詔勅ガ降リマシタ

  各員起立

○議長(奧繁三郞君)之ヲ捧讀致シマス

朕帝國憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス

〔拍手起ル〕

第35回帝国議会衆議院本会議会議録(大正3年〔1914年〕12月25日)

ここで、以下のような詔書朗読のパターンができていることが分かる。

  1. 解散の詔勅が下されたことを議長が議員に宣告する。
  2. 議員全員が起立する。
  3. 議長が詔書を読み上げる旨を議員に宣告する。
  4. 議長が詔書の本文を読み上げる。ここで「御名御璽」や詔書の日付などは読まない。
  5. 議員が拍手する。

上記のパターンは、その次の1917年の解散の際にも同様に実行された。さらに、1917年の解散では、最後に議員が拍手するだけでなく、「万歳」とも言ったことが記録されている。

○議長(島田三郞君)尾崎行雄君

〔尾崎行雄君登壇〕

〔拍手起ル〕

○議長(島田三郞君)諸君 詔勅ガ降リマシタ

〔「尾崎下ガレ〱」ト呼フ者アリ〕

〔尾崎行雄君降壇〕

各員起立

○議長(島田三郞君)詔勅ヲ拜讀致シマス

朕帝國憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス

〔「萬歲」ト呼フ者アリ拍手起ル〕

第38回帝国議会衆議院本会議会議録(大正6年〔1917年〕1月25日)

その次の1920年の解散の際には、今までの形式を踏襲しつつも、議長が議員に起立を求めるようになる。さらに、拍手の記録がなくなり、万歳のみになる。そして、万歳の後に議長が散会を宣言するようになった。

○議長(大岡育造君)詔勅ガ下リマシタ、起立ヲ希望シマス

〔總員起立〕

○議長(大岡育造君)別紙詔書及傳達候也、大正九年二月二十六日、內閣總理大臣原敬衆議院議長大岡育造殿

朕帝國憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス

〔「萬歲」ト呼フ者アリ〕

○議長(大岡育造君)散會

第42回帝国議会衆議院本会議会議録(大正9年〔1920年〕2月26日)

結局、大正期を通じて、詔書朗読について以下のようなパターンが確立してきたことになる。

  1. 解散の詔勅が下されたことを議長が議員に宣告する。
  2. 議長は議員に起立をうながし、議員全員が起立する。
  3. 議長が詔書を読み上げる旨を議員に宣告する。
  4. 議長が詔書の本文を読み上げる。ここで「御名御璽」や詔書の日付などは読まない。
  5. 議員が万歳をする。
  6. 議長が散会を宣言する。

このパターンは、昭和戦前期には完全に定着し、毎回の解散詔書朗読の進行は、判を押したように同じものとなった。

○議長(森田茂君)諸君、只今詔勅ガ降下致シマシタ、諸君ノ起立ヲ望ミマス

〔總員起立〕

○議長(森田茂君)詔書ヲ捧讀致シマス

朕帝國憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス

〔「萬歲」「萬歲」ト呼フ〕

○議長(森田茂君)是ニテ散會致シマス

第54回帝国議会衆議院本会議会議録(昭和3年〔1928年〕1月21日)

○議長(堀切善兵衞君)諸君、只今詔勅ガ降下致シマシタ、諸君ノ起立ヲ望ミマス

〔總員起立〕

○議長(堀切善兵衞君)詔書ヲ捧讀致シマス

朕帝國憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス

〔「萬歲」「萬歲」ト呼フ者アリ〕

○議長(堀切善兵衞君)本日は是ニテ散會

第57回帝国議会衆議院本会議会議録(昭和5年〔1930年〕1月21日)

1932年の解散の際には、内閣総理大臣からの伝達があったということを述べていることと、散会の宣言が見られないことが特徴的だが、基本パターンは変わっていない。

○議長(中村啓次郞君)諸君、只今 詔書降下ノ旨內閣總理大臣ヨリ傳達セラレマシタ、之ヲ捧讀致シマス、諸君ノ起立ヲ望ミマス

〔總員起立〕

朕帝國憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス

〔「萬歲」「萬歲」ト呼フ者アリ〕

第60回帝国議会衆議院本会議会議録(昭和7年〔1932年〕1月21日)

1936年の解散の際も、大きな変化はない。

○議長(濱田國松君)諸君、只今詔書降下ノ旨內閣總理大臣ヨリ傳達セラレマシタ、茲ニ之ヲ捧讀致シマス――諸君ノ御起立ヲ望ミマス

〔總員起立〕

朕帝國憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス

〔「萬歲」「萬歲」ト呼フ者アリ〕

○議長(濱田國松君)是ニテ散會致シマス

第68回帝国議会衆議院本会議会議録(昭和11年〔1936年〕1月21日)

その次の解散に当たる1937年3月の解散の際には、そもそも衆議院本会議で詔書が読まれなかった。そして、それから終戦まで衆議院が解散されることはなかった。

戦後:新たな詔書朗読形式の模索

1945年、日本は戦争に負け、連合国の占領支配におかれることとなる。戦後10年ほどの間、戦前の詔書朗読形式を基礎としながらも、解散時の詔書の朗読の方法に様々なパターンが生じることになる。この時期は、解散時の詔書朗読の方法について様々な模索をしていた時期と言えよう。

戦後の旧憲法下の解散

1945年12月に、戦後初めての衆議院解散が行われる。日本国憲法が作られる前のことなので、この時は大日本帝国憲法に基づいて衆議院が解散された。

○議長(島田俊雄君)御異議ナシト認メマス、仍テ本件ハ承諾ヲ與フルニ決シマシタ

諸君、只今 詔書降下ノ旨內閣總理大臣ヨリ傳達セラレマシタ、茲ニ之ヲ捧讀致シマス――諸君ノ御起立ヲ望ミマス

〔總員起立〕

朕帝國憲法第七條ニ依リ衆議院ノ解散ヲ命ス

〔總員敬禮〕

○議長(島田俊雄君)是ニテ散會致シマス(拍手)

第89回帝国議会衆議院本会議会議録(昭和20年〔1945年〕12月18日)

議長が朗読する内容が本文のみであるというのは、戦前に定着した慣例と変わりがない。しかし、この時は、詔書朗読後に万歳が起きていない点で変わっている。会議録を見る限り、この時の解散においては、詔書朗読後に万歳をしたとは書かれていない。会議録には全員が敬礼したと書いているのみである。日本映画社が作ったニュース映画の「日本ニュース 第264号」の「衆議院解散」のニュース映像を見ると、議長が詔書を朗読した後、深々と頭を下げているので、他の議員も同じように頭を下げていたのだと思われる。

次の解散に当たる1947年3月の解散は、明治憲法に基づく最後の衆議院解散であった。この際は、議長によって本文が朗読された後、万歳と拍手が起きるという順序になっており、戦前の慣例に従っている。「御名御璽」、詔書の日付、大臣副署については戦前の慣例と同じく朗読されていない。

○議長(山崎猛君) 御異議なしと認めます。よつて本案は可決いたしました。

たゞいま詔書降下の旨內閣總理大臣より傳達せられました。こゝにこれを捧讀いたします。諸君の御起立を望みます。

  〔總員起立〕

 朕は、帝國憲法第七條によつて、衆議院の解散を命ずる。

  〔「萬歳」「萬歳」と呼ぶ者あり、拍手〕

○議長(山崎猛君) これにて散會いたします。

第92回帝国議会衆議院本会議会議録(昭和22年〔1947年〕3月31日)

日本国憲法施行後の変動

1947年5月3日の日本国憲法の施行から2014年11月21日までに、衆議院の解散は23回行われた。このうちの20回で本会議で詔書が朗読されている。

日本国憲法下の最初の衆議院の解散は1948年12月に行われた。以下の引用文にあるように、議長によって本文が朗読された後、万歳と拍手が起きている。「御名御璽」、詔書の日付などを読まないことは、大日本帝国憲法下の慣例と同じである。ただし、この時は、議長が議員を起立させずに着席させている点が慣例と異なっている。

○議長(松岡駒吉君) 御異議なしと認めます。よつて本案は委員長報告の通り可決いたしました。(拍手)

 ただいま内閣総理大臣より詔書が発せられた旨傳えられましたから、これを朗読いたします。

    〔「大臣退席しろ」と呼び、その他発言する者多し〕

○議長(松岡駒吉君) 静粛に願います。――議員諸君は着席していただきます。――議員諸君は着席していただきます。

    〔拍手〕

  衆議院において、内閣不信任の決議案を可決した。よつて内閣の助言と承認により、日本國憲法第六十九條及び第七條により、衆議院を解散する。

    〔拍手〕 

    〔「万歳」「万歳」と呼ぶ者あり〕

○議長(松岡駒吉君) これにて散会いたします。

第4回国会衆議院本会議会議録(昭和23年〔1948年〕12月23日)

また、詔書に対して用いられる表現が、大日本帝国憲法下と日本国憲法下で変わっている。大日本帝国憲法下では、詔書は「降下」するもので、議長はそれを「捧讀」(ささげ読む)するものであった。つまり、詔書は上から降ってくるもので、議長がそれを読む際は謙譲語を使っていた。しかし、日本国憲法下では、詔書は「発せられる」もので、議長はそれを「朗読」するという上下関係のない中立的な表現に変わっている。

日本国憲法下の衆議院解散は日本国憲法第七条に基づくものとされている。日本国憲法第七条には天皇の国事行為が規定されており、内閣の助言と承認により、衆議院を解散することになっている。このため、解散の詔書には「日本国憲法第七条」という文言が必ず入ることになる。

ただし、上述の1948年12月の解散では、憲法第七条だけでなく、第六十九条にも基づいたものであるとされている。しかし、それ以後の解散においては、日本国憲法第六十九条には触れられず、詔書には「日本国憲法第七条により」とのみ書かれることになる。

日本国憲法下の3回目 [6] の衆議院の解散では、詔書の本文だけでなく、「御名御璽」、詔書の日付、総理大臣の署名も読み上げられている。今までは、詔書の本文だけを読むのが慣例になっていたから、この時に方式が変わったことになる。

○議長(大野伴睦君) ただいま内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから、これを朗読いたします。

    〔拍手〕

 別紙詔書が発せられましたからお伝えいたします。

  昭和二十八年三月十四日
    内閣総理大臣 吉田  茂
   衆議院議長大野伴睦殿

    〔別紙〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。
 御名 御璽
  昭和二十八年三月十四日
    内閣総理大臣 吉田  茂

    〔拍手、「万歳」「万歳」と呼ぶ者あり〕

○議長(大野伴睦君) 本日はこれにて散会いたします。

第15回国会衆議院本会議会議録(昭和28年〔1953年〕3月14日)

その次に行われた1955年の解散でも、議長は詔書の本文だけでなく、「御名御璽」、詔書の日付、総理大臣の署名を朗読している。また、この時には、議長による散会宣言はなかった。

○議長(松永東君) ただいま内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから、これを朗読いたします。

    〔拍手〕

  別紙詔書が発せられましたからお伝えいたします。

   昭和三十年一月二十四日
   内閣総理大臣鳩山 一郎
  衆議院議長松永東殿

    〔別紙〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する
 御名 御璽
  昭和三十年一月二十四日
   内閣総理大臣鳩山一郎

    〔拍手、「万歳」「万歳」と呼ぶ者あり〕

第21回国会衆議院本会議会議録(昭和30年〔1955年〕1月24日)

なお、以下に引いた詔書朗読時の映像を見ると、議長が「御名御璽」と言った後に、議員から「万歳」の声が上がっている。議長は、「万歳」の声が上がる中、詔書の日付や総理大臣の署名の朗読を続けている。

1958年以降:旧慣行の復活

しかし、「御名御璽」や詔書の日付などの朗読は定着しなかった。次の解散に当たる1958年の衆議院解散では、議長は詔書の本文を読むだけで済ませ、その直後に議員が「万歳」と言うようにしている。つまり、大正期に確立した古い慣行に戻ったのである。ただし、議長は議員に起立を求めなくなり、最後に散会の宣言を行わなくなった。

○議長(益谷秀次君) ただいま内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから、これを朗読いたします。

    〔拍手〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

    〔拍手する者、「万歳」「万歳」と呼ぶ者多し〕

第28回国会衆議院本会議会議録(昭和33年〔1958年〕4月25日)

その次の1960年の解散の際も同様の形式で解散詔書の朗読が行われている。

○副議長(中村高一君) ただいま内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから、これを朗読いたします。

    〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

    〔万歳三唱、拍手〕

第36回国会衆議院本会議会議録(昭和35年〔1960年〕10月24日)

つまり、日本国憲法下の衆議院解散において、本会議における詔書朗読は以下のように行われることになる。

  1. 解散の詔書 [7] が発せられたことを議長が議員に宣告する。
  2. 議員全員が起立する。ここで、議長が議員に起立をうながすセリフは言わない。
  3. 議長が詔書を読み上げる旨を議員に宣告する。
  4. 議長が詔書の本文を読み上げる。ここで「御名御璽」や詔書の日付などは読まない。
  5. 議員が万歳をして、拍手をする。
  6. 議長は散会を宣言しない。

それ以降の解散においても、詔書朗読の進行は変わらない。昭和期に行われた本会議における解散詔書朗読の残りすべてを以下に引用する。

○議長(清瀬一郎君) ただいま内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから、これを朗読いたします。

  〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

  〔万歳三唱、拍手〕

第44回国会衆議院本会議会議録(昭和38年〔1963年〕10月23日)

○議長(綾部健太郎君) ただいま内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから、これを朗読いたします。

  〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

  〔万歳三唱、拍手〕

第54回国会衆議院本会議会議録(昭和41年〔1966年〕12月27日)

○議長(松田竹千代君) ただいま内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから、これを朗読いたします。

  〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

  〔万歳三唱、拍手〕

第62回国会衆議院本会議会議録(昭和44年〔1969年〕12月2日)

○議長(船田中君) ただいま内閣総理大臣から詔書が発せられた旨伝えられましたから、朗読いたします。

  〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

  〔万歳三唱、拍手〕

第70回国会衆議院本会議会議録(昭和47年〔1972年〕11月13日)

○議長(灘尾弘吉君) ただいま内閣総理大臣から、詔書が発せられた旨伝えられましたから、朗読いたします。

    〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

    〔万歳、拍手〕

第88回国会衆議院本会議会議録(昭和54年〔1979年〕9月7日)

○議長(福田一君) ただいま内閣総理大臣から、詔書が発せられた旨伝えられましたから、朗読いたします。

    〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

    〔万歳、拍手〕

第100回国会衆議院本会議会議録(昭和58年〔1983年〕11月28日)
昭和58年(1983年)11月28日に発せられた衆議院解散の詔書
昭和58年(1983年)11月28日に発せられた衆議院解散の詔書 [8]

平成に入っても、議長による詔書本文朗読と、議員による万歳・拍手という慣例は続いた。なお、1989年1月に年号が平成に改まってから、2014年11月まで、衆議院解散は9回行われている。この9回全てで、本会議で詔書が朗読された。

○議長(田村元君) ただいま内閣総理大臣から、詔書が発せられた旨伝えられましたから、朗読いたします。

    〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

    〔万歳、拍手〕

第117回国会衆議院本会議会議録(平成2年〔1990年〕1月24日)

以下に示す1993年の解散は、内閣不信任決議の可決に対抗する [9] ための解散であったが、詔書の文面も本会議での詔書の朗読形式も今までと変わらないものであった。

○議長(櫻内義雄君) ただいま内閣総理大臣から、詔書が発せられた旨伝えられましたから、朗読いたします。

    〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

    〔万歳、拍手〕

第126回国会衆議院本会議会議録(平成5年〔1993年〕6月18日)

以下の1996年の解散の際には、憲政史上初めて女性が解散詔書を本会議で朗読することになったが、方式に全く変化はない。

○議長(土井たか子君) ただいま内閣総理大臣から、詔書が発せられた旨伝えられましたから、朗読いたします。

    〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

    〔万歳、拍手〕

第137回国会衆議院本会議会議録(平成8年〔1996年〕9月27日)

それ以降も、詔書朗読の方式に変化はない。平成10年代に行われた3つの解散の時の例を以下に引用する。

○議長(伊藤宗一郎君) ただいま内閣総理大臣から、詔書が発せられた旨伝えられましたから、朗読いたします。

    〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

    〔万歳、拍手〕

第147回国会衆議院本会議会議録(平成12年〔2000年〕6月2日)

○議長(綿貫民輔君) ただいま内閣総理大臣から、詔書が発せられた旨伝えられましたから、朗読いたします。

    〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

    〔万歳、拍手〕

第157回国会衆議院本会議会議録(平成15年〔2003年〕10月10日)

○議長(河野洋平君) ただいま内閣総理大臣から、詔書が発せられた旨伝えられましたから、朗読いたします。

    〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

    〔万歳、拍手〕

第162回国会衆議院本会議会議録(平成17年〔2005年〕8月8日)

2009年の解散の際も、いつもと同じ形式で進行した。なお、河野洋平議長は2005年に引き続き解散詔書を本会議で朗読したことになる。解散詔書を2回朗読したのは河野議長が初めてである。

○議長(河野洋平君) ただいま内閣総理大臣から、詔書が発せられた旨伝えられましたから、朗読いたします。

    〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

    〔万歳、拍手〕

第171回国会衆議院本会議会議録(平成21年〔2009年〕7月21日)

2012年の解散の際も特に変化はなかった。

○議長(横路孝弘君) ただいま内閣総理大臣から、詔書が発せられた旨伝えられましたから、朗読いたします。

    〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。

    〔万歳、拍手〕

第181回国会衆議院本会議会議録(平成24年〔2012年〕11月16日)

2014年:伝統の変化?

ところが、2014年11月の衆議院解散では、詔書朗読の方式が大きく変わった。詔書朗読がどのように行われたかを以下に示そう。

○議長(伊吹文明君)ただいま憲法第七条により詔書が発せられた旨、内閣総理大臣から伝達されましたので、これを朗読をいたします。

    〔総員起立〕

日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。
御名

    〔万歳〕

○議長(伊吹文明君)御名御璽
平成二十六年十一月二十一日
内閣総理大臣 安倍晋三

以上です。万歳はここでやってください。

    〔万歳、拍手〕

以上をもって散会いたします。

第187回国会における衆議院解散詔書朗読の文言を衆議院インターネット審議中継のビデオライブラリに収録されている2014年11月21日の本会議の映像をもとに書き起こしたもの

この解散では、議長が詔書の本文の後に「御名御璽」と言おうとしたために、一部の議員がフライングで万歳をしてしまったような形になってしまっている。先述のように、1958年以降、50年以上もの間、議長が詔書の本文を読み終わった後、すなわち「衆議院を解散する」と言った後に万歳をするのが慣習になっていたのである。だから、ここで議長が「衆議院を解散する」と言った後に一部の議員が万歳をしたのは全く変なことではない。

さて、2014年11月の解散詔書朗読は、今までとかなり方式が異なっている。日本国憲法下の衆議院解散の慣例と異なる点を挙げよう。

これは、先に述べた1953年の解散の時と似たような形式の詔書朗読になっている。なぜこのような形式になったのかは今のところ謎である。(2014年11月23日追記:『朝日新聞デジタル』の「『御名言う前に拍手しちゃ困る』 伊吹議長イラッ?」(2014年11月21日付)という記事によれば、伊吹議長は詔書朗読が終わった後、「解散は天皇陛下の国事行為としてなされる。(解散詔書に)御名と御璽が押されていることを私が言わなくちゃいけない。その前に拍手をしちゃ困っちゃうんだな」と語ったのことである。また、NHKニュース(ウェブ版)の「恒例の万歳三唱 『異例』のやり直し」(2014年11月21日付)という記事によれば、伊吹議長が詔書朗読後の記者会見で「解散は、あくまで天皇陛下の国事行為として解散詔書が出されてなされるもので、憲法7条によって衆議院を解散することと、天皇陛下の御名・御璽が押されていることを言わなくてはならず、その前に万歳や拍手をしては困る」述べたとされている。これらのことから、伊吹議長は、衆議院解散が天皇の国事行為だということを強調するために「御名御璽」と言ったことが知れる。)

今後もこのような形式が続くのか、あるいは元の形式に戻るかについても今はまだ分からないが、注目に値することであろう。

国会会議録上の記録

(この節は2014年11月30日に追記したものである)

2014年11月21日の衆議院解散に際し、本会議で衆議院議長が解散詔書を朗読した時の国会会議録が公表されたので、それについて紹介したい。

○議長(伊吹文明君) ただいま、憲法第七条により詔書が発せられた旨、内閣総理大臣から伝達されましたので、これを朗読いたします。

    〔総員起立〕

  日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。
   御名 御璽
    平成二十六年十一月二十一日
         内閣総理大臣 安倍 晋三

    〔万歳、拍手〕

第187回国会衆議院本会議会議録(平成26年〔2012年〕11月21日)

この国会会議録の記述は、明らかに実際に本会議場で起きた事件を正確に捉えていない。先に挙げた本会議の映像をもとに書き起こしたものとの違いを以下に挙げよう。

ここで、国会会議録は発言を忠実に記録するものではないことに注意する必要がある。国会会議録の作成に当たっては「整文」と呼ばれる編集作業において、言い誤りなどが直される [10] 。伊吹議長が「これを朗読いたします」と言ったのが、「これを朗読いたします」に変わっているのは、この整文によって言い誤り [11] が修正されているのであろう。また、会議録として分かりやすくするために、整文の過程で議長が「御名」を言い直したことも書かなくなったと考えられる。

ただ、伊吹議長の詔書朗読後の発言や散会宣言が記されていないことについては、整文の範疇を超えているように思われる。このため、詔書朗読後の発言や散会宣言が記されなかった理由は別にある可能性がある。その可能性として考えられることが1つある。すでに議長でなくなってしまったために、発言が記録されなかったということだ。詔書朗読が終了した時点で衆議院が解散すると考えれば、その時点ですべての衆議院議員が議員としての身分を失うことになる。衆議院議長についても同様である。つまり、解散詔書を読み終わった後は、議長ではなくただの人である。ただの人の話したことを記す理由はないということなのかもしれない。

(2014年11月30日に追記した部分終わり)

まとめ

今までに見てきたことをまとめよう。

衆議院本会議において解散詔書を朗読した事例
解散日時 議長の行動 議員の行動
起立をうながす 詔書本文朗読 御名御璽朗読 日付朗読 大臣署名朗読 散会宣言 万歳 拍手 敬礼
明治27年〔1894年〕6月2日
明治30年〔1897年〕12月25日
明治35年〔1902年〕12月28日
大正3年〔1914年〕12月25日
大正6年〔1917年〕1月25日
大正9年〔1920年〕2月26日
昭和3年〔1928年〕1月21日
昭和5年〔1930年〕1月21日
昭和7年〔1932年〕1月21日
昭和11年〔1936年〕1月21日
昭和20年〔1945年〕12月18日
昭和22年〔1947年〕3月31日
昭和23年〔1948年〕12月23日
昭和28年〔1953年〕3月14日
昭和30年〔1955年〕1月24日
昭和33年〔1958年〕4月25日
昭和35年〔1960年〕10月24日
昭和38年〔1963年〕10月23日
昭和41年〔1966年〕12月27日
昭和44年〔1969年〕12月2日
昭和47年〔1972年〕11月13日
昭和54年〔1979年〕9月7日
昭和58年〔1983年〕11月28日
平成2年〔1990年〕1月24日
平成5年〔1993年〕6月18日
平成8年〔1996年〕9月27日
平成12年〔2000年〕6月2日
平成15年〔2003年〕10月10日
平成17年〔2005年〕8月8日
平成21年〔2009年〕7月21日
平成24年〔2012年〕11月16日
平成26年〔2014年〕11月21日
脚注
  1. 口語訳すれば「天皇は帝国議会を召集し、その開会・閉会・停会、及び衆議院の解散を命じる」となる。 []
  2. JACARアジア歴史資料センター)Ref.A03020092400、御署名原本・明治二十四年・詔勅十二月二十五日・衆議院解散(国立公文書館)」より。 []
  3. 口語訳すれば「天皇である私は大日本帝国憲法第七条によって衆議院の解散を命じる」となる。 []
  4. 大正時代に唯一本会議で詔書が朗読されなかったのが、1924年1月の解散である。『衆議院先例彙纂 昭和17年12月改訂 上巻』(衆議院事務局編、1942年)によれば、この時は、衆議院の休憩中に解散が伝達された。 []
  5. 昭和戦前期に唯一本会議で詔書が朗読されなかったのが、1937年3月の解散である。『衆議院先例彙纂 昭和17年12月改訂 上巻』(衆議院事務局編、1942年)によれば、この時は、衆議院の本会議が始まる前に解散が伝達された。 []
  6. 日本国憲法下での2回目の衆議院の解散は、1952年8月28日に行われたが、この時は本会議が開かれていなかったので、本会議で解散詔書は朗読されなかった。 []
  7. 2015年11月3日誤字修正。もともと「解散の詔勅」となっていたものを正しく「解散の詔書」に改めた。 []
  8. 国立公文書館デジタルアーカイブの「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する件・御署名原本・昭和五十八年・第一巻・詔書十一月二十八日」より。 []
  9. 日本国憲法第69条において、「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。」と規定されており、内閣は不信任決議が可決された場合、衆議院の解散か総辞職のいずれかを選ばなくてはならない。 []
  10. 松田謙次郎・薄井良子・南部智史・岡田裕子 (2008). 「国会会議録はどれほど発言に忠実か?」松田謙次郎〔編〕『国会会議録を使った日本語研究』(pp. 33–62). ひつじ書房. []
  11. 日本語では、「…を…を」のように助詞の「を」が重複することは文法的でないとされている。だから、「これを朗読をいたします」と「を」が2回になっているものが「これを朗読いたします」と「を」が1回しか使われていない形に直されたのである。 []