途中で止まった電車
東京駅の開業式は、1914年(大正3年)12月18日に行われた。これに合わせて、東京と横浜の間に電化された鉄道(京浜線)が走ることとなった。それまでは両都市は蒸気機関車で結ばれていたのだが、電車でも結ばれるようになったのだ。
12月18日の開業式の際には、式の来賓を東京から横浜までの電車に試乗させることになっていた。しかし、この試乗の途中で、何度も停車するというトラブルに見舞われた。日本の電車でパンタグラフが用いられたのはこの路線が初めてで、パンタグラフが架線と合わずに動かなくなったためである [1] 。
このトラブルによって、鉄道院は総裁の仙石貢の名前で謝罪広告を出すはめになった。『東京朝日新聞』に載った謝罪広告を引用する。
謝罪広告は上記のように候文で書かれている。当時、こうした謝罪を新聞紙上に載せるときは、候文で書くことは少なくなかった。
トラブルのその後
開業式典の2日後の12月20日に、東京駅は正式に開業となった。同時に東京と横浜の間の電車の運行が正式に始まった。しかし、開業式典の日からのトラブルは続いた。
大正3年(1914年)12月21日付けの『東京朝日新聞』の5面には、12月20日に「今も亦大井驛で停電して廿分ばかり遅れた」と書いてある。つまり東京と横浜の間にある大井町駅 [2] で停電が起き、電車が20分ばかり遅延したということである。また、12月19日午後5時に東神奈川駅の電車車庫にて三十八歳の工夫が感電死したという報道も載っている。
このような形でトラブルがあいついだので、東京横浜間の電車は、12月26日に運行休止となった。その後、翌1915年5月に運行が再開した。この路線は、今でも京浜東北線として東京横浜間の輸送の任に当たっている。
脚注