ローマ法研究者原田慶吉の死

概要
ローマ法の研究者で東大教授を務めていた原田慶吉は、1950年に突如自殺した。自殺の理由として、精神衰弱と生活苦が挙げられる。

はじめに

原田慶吉(はらだ けいきち、1903-1950)は、ローマ法・楔形文字法の研究者として知られ、東京大学法学部の教授を務めていた。原田は第二次世界大戦が終わった5年後の1950年に突如自殺した。

なお、原田の年譜・著作目録として、原田慶吉教授(1903~1950)著作目録(2訂版)に詳しい情報がある。

精神衰弱

原田慶吉は、1950年9月1日午後3時半、自宅で首を吊って自殺した。その翌々日の『朝日新聞』の記事 [1] では強度の精神衰弱が理由として挙げられている。9月24日の『朝日新聞』のコラム「天声人語」では、原田が精神を病んだものの、治療の資金が無かったことが記されている。

生活苦

しかし、精神衰弱だけが原因ではなかったらしい。朝日新聞の別の記事 [2] には、自殺の理由として生活苦も挙げられている。

原田の給料は1950年の春の時点で月に13,000円あまりであった。なお、国家公務員の大卒初任給は、1949年4月が4,223円で、1951年4月が5,500円である [3] 。だから、それなりの高給取りではある。しかし、この時期の日本は猛烈なインフレが発生しており、給料をもらったとしてもどんどん価値が失われていくのであった。しかも、専門書を1冊買うのに2,000-3,000円はしたとのことで、お金がいくらあっても足りなかった。

こうした中、原田は、六畳一間に住み、さらに戦時中から闇食料を拒否していたという。その生活は決して過ごしやすいものではなかったと想像される [4] 。東大教授といえども、戦後の生活は相当に苦しかったのである [5]

これに加えて、1950年に税務署から10数万円の税の督促があり、原田はこれに大いに苦しんだ。しかし、翌日妻が税務署に行くと手違いだったことが分かったとのことである。

脚注
  1. 『朝日新聞』(1950年9月3日、東京/夕刊、2頁、「原田教授(東大)自殺す」) []
  2. 『朝日新聞』(1950年9月21日、東京/朝刊、2頁、「原田教授はなぜ自殺した? 薄給と税金苦」) []
  3. 国家公務員の初任給の変遷(行政職俸給表(一)) []
  4. 小売物価統計調査」で1950年の東京都区部の物価を見ると、全国紙の新聞代(朝夕刊)1ヶ月が70円、葉書1通が2円、スイカ1 kgが15.1円、うるち米5 kgが99円である。 []
  5. 当たり前のことだが、物価上昇に見合った形で収入が増加しないと生活費が足りなくなる。しかし、大学教授は給与生活者なので、すぐに給与の額が改定されるわけではない。収入を増やそうとしても自らが打てる手はあまりないのである。 []