はじめに
本記事では、世界の宗教の聖典を読みたいと考えている人のために、手軽に読むことができる日本語訳の聖典 [1] を紹介する。
「聖典」とは、宗教のよりどころとなる重要な書物のことを指す。キリスト教で言えば『聖書』が聖典となり、イスラームで言えば『コーラン』が聖典になる。なお、聖典の代わりに、「経典」ということばが用いられることがある。
キリスト教
キリスト教は、信徒数が世界で最も多い宗教であり、ヨーロッパ、南北アメリカ、サハラ以南のアフリカ、オセアニアなどに信徒が多い。
キリスト教の根本となる聖典が『聖書』である。聖書の日本語訳には様々なものがあるが、現在では日本聖書教会の新共同訳が定番である。なお、日本聖書教会の新共同訳の聖書には様々な判型のものがあり、革装のものやジッパー付きのものもある。自分の読みやすいものを選ぼう。
『聖書』は旧約聖書と新約聖書から構成されている。旧約聖書はユダヤ教から引き継いだものであり、ユダヤ教とキリスト教の双方で聖典とされている。新約聖書はキリスト教のみで聖典とされている。
新約聖書は、イエス・キリストの事蹟を記す4つの「福音書」 [3] 、初期キリスト教の活動を記す「使徒言行録」、信徒に宛てられた「書簡」、預言書の「ヨハネの黙示録」からなる。結構な量があるので、始めて読む人はまず「福音書」だけでも読むと良いのではないだろうか。「福音書」はイエス・キリストがどのようなことをしてきたかということについて物語調で書かれているので、比較的読み始めやすい。例えば、「ルカによる福音書」の冒頭部分は以下のようなものになっている。
イスラーム
イスラームは、信徒数で言えば世界第2位の宗教であり、中東を中心として、アフリカ・中央アジア・南アジア・東南アジアなどに信徒が多い。
『コーラン』
イスラーム最高の聖典が『コーラン』 [4] だ。イスラームの考えに従うと、唯一の神であるアッラーフ [5] が預言者ムハンマドに啓示を下し、それを書き記したものが『コーラン』になる。
『コーラン』を日本語で読む場合は、中公クラシックスに収められているものが比較的読みやすいと思われる。訳文も分かりやすく、注も十分にある。
中公クラシックス版の『コーラン』の文章を引用しよう。
『コーラン』は基本的に、前の方の章が長く具体的な内容が書かれており、後ろの方の章が短く抽象的な内容が書かれている。このため、長い文章を読むのに慣れない人は、むしろ後ろの方から読んだ方が良いかもしれない。
なお、岩波文庫にも『コーラン』がある。
ただし、古い訳なので現在の読者にとってはやや読みにくいかもしれない。以下に引用する岩波文庫版の訳文を見れば、先に挙げた中公クラシックス版より古くさい訳になっていることが分かるだろう。
中公クラシックス版と岩波文庫版は底本が異なっている。中公クラシックス版は標準エジプト版と呼ばれる刊本を元に翻訳し、岩波文庫版はフリューゲル版と呼ばれる刊本を元に翻訳している。標準エジプト版とフリューゲル版は、節の番号の振り方が異なっている [6] 。
なお、Quran.comというサイトで、コーランの原文、朗誦された音声、英訳、和訳などを見ることができる。このサイトのメニューは英語で表示されている。和訳を出したければ、まず読みたい章を選んだ上で、ツールバーの“Other Languages”から“Japanese”を選べばよい。
『ハディース』
イスラームの第二の聖典に当たるのが『ハディース』だ。中公文庫から全6巻で出版されている。
- 牧野信也〔訳〕(2001). 『ハディース1 イスラーム伝承集成』東京:中央公論新社.
- 牧野信也〔訳〕(2001). 『ハディース2 イスラーム伝承集成』東京:中央公論新社.
- 牧野信也〔訳〕(2001). 『ハディース3 イスラーム伝承集成』東京:中央公論新社.
- 牧野信也〔訳〕(2001). 『ハディース4 イスラーム伝承集成』東京:中央公論新社.
- 牧野信也〔訳〕(2001). 『ハディース5 イスラーム伝承集成』東京:中央公論新社.
- 牧野信也〔訳〕(2001). 『ハディース6 イスラーム伝承集成』東京:中央公論新社.
『ハディース』は預言者ムハンマドの言行録である。正直言って、かなり細かい話が多く、読み通すのはなかなか辛い。
ゾロアスター教
ゾロアスター教はイランを発祥の地とする善悪二元論の宗教である。善の象徴である火を尊ぶという特徴がある。かつては多くの信徒がいたが、イランの主要な宗教がイスラームに変わったことによって信徒が激減した。ただし、今でもイランにゾロアスター教徒のコミュニティが残っているほか、インドにもゾロアスター教徒のコミュニティがある。
ゾロアスター教の最も重要な聖典が『アヴェスター』である。『アヴェスター』には「ヤスナ」と呼ばれる祭儀書、「ウィーデーウ」と呼ばれる除魔書、「ヤシュト」と呼ばれる神々への讃歌などから構成されている。
『アヴェスター』の日本語訳は、ちくま学芸文庫から出ている。
- 伊藤義教〔訳〕(2012). 『原典訳 アヴェスター』東京:筑摩書房.
ただし、この日本語訳は、『アヴェスター』の全訳ではなく、一部を訳しているのみである。
ヒンドゥー教
ヒンドゥー教は、インドで広く信仰されている多神教である。ヒンドゥー教の根本となる聖典がヴェーダであり、以下の4種類のものがある。
- 『リグ・ヴェーダ』
- 『サーマ・ヴェーダ』
- 『ヤジュル・ヴェーダ』
- 『アタルヴァ・ヴェーダ』
この4つのヴェーダの中で比較的容易に和訳を読むことができるのが、岩波文庫に収録されている『リグ・ヴェーダ』と『アタルヴァ・ヴェーダ』だ。なお、いずれも抄訳である。
- 辻直四郎〔訳〕(1978). 『リグ・ヴェーダ讃歌』東京:岩波書店.
- 辻直四郎〔訳〕(1979). 『アタルヴァ・ヴェーダ讃歌』東京:岩波書店.
『リグ・ヴェーダ』はヴェーダの中で最も古いもので、古代インドの神話をよく伝えている。
『アタルヴァ・ヴェーダ』は、ヒンドゥー教の4つのヴェーダの中でも実用的なもので、様々な呪文が書いてある。呪文の中には「傷を癒すための呪文」といった治療のための呪文もあれば、「戦勝を得るための祈願」といった戦争のための呪文もある。「女子に熱烈な愛情を起こさしむるための呪文」といった恋愛用の強烈な呪文も載っている。『アタルヴァ・ヴェーダ』の呪文の例を1つ引用しよう。
また、ウパニシャッドというものもある。これは、ヴェーダに付随する文献で、哲学に関する文献である。ちくま学芸文庫に主要なウパニシャッドの訳が収録されている [7] 。
- 岩本裕〔訳〕(2013). 『原典訳 ウパニシャッド』東京:筑摩書房.
この他、『バガヴァッド・ギーター』というものもある。これは、叙事詩『マハーバーラタ』の一部で、社会人であることを放棄するのではなく、むしろ定められた行為を捨てないようにすることが大事だという考えを示した韻文である。岩波文庫から出ている『バガヴァッド・ギーター』は丁寧な訳注が付いている。
- 上村勝彦〔訳〕(1992). 『バガヴァッド・ギーター』東京:岩波書店.
仏教
仏教はインドで生まれた宗教で、釈迦を開祖とする。東アジアや東南アジアに信徒を広げたものの、発祥の地であるインドではすたれている。
仏教には大量の聖典がある。時代ごとに、教説を明らかにするために後付けで新しい聖典が作られていったため、聖典がどんどん蓄積していったのだ。後付けで作られていったため、一口に仏教の聖典と言っても、釈迦自身の教説から離れたものも少なくない。(とは言え、後付けの経典であったとしても、「釈迦が語ったことを聞いた」という建前で書かれている。)
初期仏教
まずは、釈迦が実際に説いた教えに比較的近いとされる初期仏教の聖典を紹介する。『スッタニパータ』は最古の仏教経典の1つで、釈迦の説いた教えにかなり近いものとされている。
- 中村元〔訳〕(1984). 『ブッダのことば――スッタニパータ』東京:岩波書店.
仏教の経典は観念的で難しいものが多いのだが、『スッタニパータ』のような初期仏教の経典はそれほど難しくない。一例を挙げよう。
岩波文庫の『ブッダのことば――スッタニパータ』は、注が非常に豊富で、訳文と同じぐらいの量の注が付されている。
この他にも、岩波文庫には初期仏教の経典が多数収録されている。
- 中村元〔訳〕(1978). 『ブッダの真理のことば・感興のことば』東京:岩波書店.
- 中村元〔訳〕(1980). 『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経』東京:岩波書店.
- 中村元〔訳〕(1986). 『ブッダ神々との対話――サンユッタ・ニカーヤI』東京:岩波書店.
- 中村元〔訳〕(1986). 『ブッダ悪魔との対話――サンユッタ・ニカーヤII』東京:岩波書店.
- 中村元〔訳〕(1982). 『仏弟子の告白――テーラガーター』東京:岩波書店.
- 中村元〔訳〕(1982). 『尼僧の告白――テーリーガーター』東京:岩波書店.
上記のうち、『ブッダの真理のことば・感興のことば』には「真理のことば」に当たる『ダンマパダ』 [8] 「感興のことば」に当たる『ウダーナヴァルガ』が載っている。『ダンマパダ』も『ウダーナヴァルガ』も釈迦のことばを記録した語録である。『スッタニパータ』が難しく感じる人は、この『ブッダの真理のことば・感興のことば』を読むと良いだろう。
大乗仏教
大乗仏教は釈迦の死後数百年経ってから生まれた仏教の一派である。大乗仏教は、インドから中央アジア、中国、朝鮮半島を経て、日本に伝わった。日本で現在行われている仏教は基本的に大乗仏教である。
大乗仏教の中でも比較的初期に編まれたものとして、『般若経』と総称される書物がある。『般若経』は大乗仏教の最も重要な概念である「空」という概念を論じている。『般若経』には、写経の際にしばしば用いられる『般若心経』が含まれている。「色即是空」という有名な言葉もこの『般若心経』に載っている。岩波文庫には、『般若心経』と『金剛般若経』を収めた一冊がある。
- 中村元・紀野一義〔訳〕(2001). 『般若心経・金剛般若経』東京:岩波書店.
また、阿弥陀仏が住まう汚れのない世界「浄土」について論じた『浄土経』という経典もある。これらの経典は浄土宗や浄土真宗で重視されている。『浄土教』の中でも重要な『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』は『浄土三部経』と総称されている。岩波文庫にこの『浄土三部経』がある。
- 中村元・早島鏡正・紀野一義〔訳〕(1990). 『浄土三部経(上)無量寿経』東京:岩波書店.
- 中村元・早島鏡正・紀野一義〔訳〕(1990). 『浄土三部経(下)観無量寿経・阿弥陀経』東京:岩波書店.
なお、中公文庫から全15巻の大乗仏典のシリーズが文庫本として出ている。本気でたくさん大乗仏典を読みたい人にとっては良いかもしれない。
- 長尾雅人・戸崎宏正〔訳〕(2001). 『大乗仏典1 般若部経典――金剛般若経・善勇猛般若経』東京:中央公論新社.
- 梶山雄一〔訳〕(2001). 『大乗仏典2 八千頌般若経I』東京:中央公論新社.
- 梶山雄一・丹治昭義〔訳〕(2001). 『大乗仏典3 八千頌般若経II』東京:中央公論新社.
- 松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義〔訳〕(2001). 『大乗仏典4 法華経I』東京:中央公論新社.
- 松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆〔訳〕(2002). 『大乗仏典5 法華経II』東京:中央公論新社.
- 山口益・桜部建・森三樹三郎〔訳〕(2002). 『大乗仏典6 浄土三部経』東京:中央公論新社.
- 長尾雅人・丹治昭義〔訳〕(2002). 『大乗仏典7 維摩経・首楞厳三昧経』東京:中央公論新社.
- 荒牧典俊〔訳〕(2003). 『大乗仏典8 十地経』東京:中央公論新社.
- 長尾雅人・桜部建〔訳〕(2003). 『大乗仏典9 宝積部経典――迦葉品・護国尊者所問経・郁伽長者所問経』東京:中央公論新社.
- 田村智淳〔訳〕(2003). 『大乗仏典10 三昧王経I』東京:中央公論新社.
- 田村智淳・一郷正道〔訳〕(2004). 『大乗仏典11 三昧王経II』東京:中央公論新社.
- 髙﨑直道〔訳〕(2004). 『大乗仏典12 如来蔵系経典――如来蔵経・不増不減経・勝鬘経・華厳経如来性起品・智光明荘厳経』東京:中央公論新社.
- 原実〔訳〕(2004). 『大乗仏典13 ブッダ・チャリタ(仏陀の生涯)』東京:中央公論新社.
- 梶山雄一・瓜生津隆真〔訳〕(2004). 『大乗仏典14 龍樹論集――六十頌如理論・空七十論・廻諍論・ヴァイダルヤ論・宝行王正論・勧誡王頌・大乗二十頌論・因縁心論』東京:中央公論新社. [9]
- 長尾雅人・梶山雄一・荒牧典俊〔訳〕(2005). 『大乗仏典15 世親論集――唯識二十論・唯識三十論・三性論・中辺分別論』東京:中央公論新社.
道教
道教は中国固有の宗教の1つである。
道教に関する経典の中心となるのが『老子』 [10] である。これは古代中国の伝説上の人物である老子の手による書物とされる。
『老子』には様々な訳本があるが、岩波文庫版の『老子』が平易な訳で比較的読みやすいだろう。また、ちくま学芸文庫の『老子』も読みやすい。
この他、道教において『老子』と並び称される経典とされているのが、『荘子』 [11] である。『荘子』は内篇・外篇・雑篇から構成されている。内篇は古代中国の思想家である荘子が書いたものであるとされており、外篇・雑篇は後世に作られたものであると考えられている。『荘子』の翻訳にも様々なものがあるが、個人的にはちくま学芸文庫の『荘子』が読みやすいと思う。
- 福永光司・興膳宏〔訳〕(2013). 『荘子 内篇』東京:筑摩書房.
- 福永光司・興膳宏〔訳〕(2013). 『荘子 外篇』東京:筑摩書房.
- 福永光司・興膳宏〔訳〕(2013). 『荘子 雑篇』東京:筑摩書房.
ただ、実のところ、『老子』・『荘子』に書かれている内容と、道教という宗教の実践の間にはかなりの距離がある。『聖書』を読んでキリスト教に対する理解が深まるほど、『老子』・『荘子』を読んで道教に対する理解が深まるわけではない。
より道教らしい経典を読みたければ、『抱朴子 内編』という書物を読んでみるのが良いかもしれない。この本には、仙人になる方法などが書いてある。
儒教
儒教もまた中国固有の宗教の1つである。儒教に関する文献には様々なものがあるが、まずは孔子の言行録である『論語』から読み始めると良いだろう。『論語』の訳にも色々あるのだが、岩波文庫に収録されているものが分かりやすい。
- 金谷治〔訳〕(1999). 『論語』東京:岩波書店.
- 2015年1月24日追記:ここで紹介するのは、文庫や新書などの形になっていて手軽に読める聖典である。あまり手軽には読めない聖典については紹介していない。なお、国立国会図書館のリサーチ・ナビに「アジア発祥の宗教の聖典・教典・経典」というページには、仏教・儒教・道教・ヒンドゥー教・シーク教・ゾロアスター教・ユダヤ教・キリスト教・イスラームの聖典についての情報が載っている。ここにはあまり手軽でないものについても書いてあるので、さらに読みたいという人はこちらを参考にすると良いだろう。 [↩]
- Flickrより Lawrie Cate 氏のCC BY 2.0画像を使用。 [↩]
- 「マタイによる福音書」、「マルコによる福音書」、「ルカによる福音書」、「ヨハネによる福音書」の4つ。 [↩]
- この聖典を日本語では『コーラン』と呼ぶときと『クルアーン』と呼ぶときがある。この聖典はアラビア語で書かれており、アラビア語の発音に忠実に日本語にすると『クルアーン』(qur’?n)になる。また、『コーラン』という呼び方は、ヨーロッパの諸言語での呼び方に由来している。 [↩]
- アッラー、アラーともいう。 [↩]
- ただし、岩波文庫版には、フリューゲル版での節番号だけでなく、標準エジプト版の節番号も振られている。 [↩]
- 『カウシータキ=ウパニシャッド』の抄訳、『チャーンドーグヤ=ウパニシャッド』の全訳、『ブリハッド=アーラヌヤカ=ウパニシャッド』の抄訳、『カタ=ウパニシャッド』の全訳、『プラシュナ=ウパニシャッド』の全訳を収録。 [↩]
- 『法句経』とも呼ばれる。 [↩]
- 龍樹の著として有名である『中論』はこの本に収録されていない。 [↩]
- 『道徳経』とも呼ばれる。 [↩]
- 『南華真経』とも呼ばれる。 [↩]