はじめに
1945年、すなわち昭和二十年の敗戦とともに、日本では価値観の逆転が起こった。かつて軍国主義をたたえていた言論人が、民主主義を新たなるお題目とするようになった。それは、端から見ると不愉快な変節のようにも見えた。
小説家の織田作之助は昭和二十年の秋に以下のように記している。
ただ、敗戦からすでに77年が過ぎ、このような価値観の逆転は今の我々には実感しにくいものになっている。なんとかしてこの現象を実感することはできないのだろうか。
そこでお勧めしたいのが、本日紹介する文春新書の『昭和二十年の「文藝春秋」』である。この本はタイトルが表すとおり、昭和二十年、つまりアジア太平洋戦争が終わった1945年に出された「文藝春秋」に載った作品をまとめた本だ。この本には、戦中の「文藝春秋」に収められた作品と戦後の「文藝春秋」に収められた作品の両方が載っている。このため、日本人の考え方が、戦中と戦後でどのように変わったかということを知るための1つの助けとなるだろう。
- 文春新書編集部〔編〕(2008). 『昭和二十年の「文藝春秋」』東京:文藝春秋.
以下、本記事ではこの新書がどのようなものなのか紹介していこうと思う。
「文藝春秋」とその昭和二十年における状況
「文藝春秋」とは、文芸作品のみならず、様々な分野の記事も掲載する総合雑誌である。この雑誌は、1923年に発行が始まり、現代に至るまで発行が続いている。
太平洋戦争が終わった1945年、つまり、昭和二十年もこの雑誌は発行されていた。「文藝春秋」は本来月刊である。しかし、昭和二十年においては毎月「文藝春秋」が出されたわけではなかった。戦争による混乱で、新年号・二月号・三月号・十月号・十一月号・十二月号の6冊しか出なかった。四月号は準備したものの印刷工場が空襲で焼けたために出版できなかった。その後、出版するために新たな印刷工場がなんとか見つかったものの、8月15日の玉音放送を受けて、戦時中の編集方針のままでは出版できなくなった。このため、編集の方針を大きく変えた上で、ようやく十月号を出すことになったのである。要するに、新年号・二月号・三月号が戦中の価値観を反映したもの、十月号・十一月号・十二月号が戦後の価値観を反映したものになる。
さて、これら6冊の「文藝春秋」の中からいくつかの作品を選び出し、簡単な解説を加えて1冊の新書にまとめたのが、ここで紹介する新書『昭和二十年の「文藝春秋」』である。
現代の編集者の価値判断
『昭和二十年の「文藝春秋」』には、昭和二十年に出された「文藝春秋」に載った全ての作品が収録されているわけではない。各月号のうち、5から10の作品を載せているだけである。そこには、どの作品を選ぶのかという現代の編集者による価値判断が含まれている。
つまり、全部の作品を載せない以上、何らかの基準でどの作品を選ぶのかということを決めなくてはならない。その基準には当然現代の編集者の価値観が反映される。現代の編集者が昭和二十年をどう捉えるかによって、作品が選ばれたのだ。
では、この本の編集にあたって現代の編集者がよりどころとして考え方はどのようなものだろうか。それはおそらく「あの戦争は抑圧的なものであって、国民が悲惨な状況に置かれた」というものである [1] 。このように明言されているわけではないが、編集されてできあがった『昭和二十年の「文藝春秋」』を見ると、このような編集者の思いを感じ取ることができる。
皮肉な解説
例えば、『昭和二十年の「文藝春秋」』では昭和二十年二月号から「八紘隊は征く」という戦記を載せている。これは、陸軍の特攻部隊である八紘隊を従軍作家が訪問したときの話を書いたものである。その中で、陸軍報道部長の松村少将が特攻隊員に対して「諸子は一億国民の先鋒となって、いかに国民の戦意をかきたてたか、必ずやあとに続くものあるを信じてもらいたいのである。」と激励の辞を述べるシーンがある。
この作品に対し、現代の編集者は「陸軍の航空特攻部隊である八紘隊を送った陸軍報道部長、松村秀逸という男」という解説を付している。この解説は、松村に関する以下の文で終わっている。
これは単に松村の戦後の事績を「客観的」に述べただけである。しかし、客観的に戦後の事績を描くことで、松村が特攻隊員のあとに続くことがなく、社会の指導層としてのうのうと生き延びたという対比を描いているのであろう。
結局のところ、戦時において、末端に犠牲が強いられていたにも関わらず、指導層は必ずしもそうではなかったことを示しているのだろう。
戦争被害を知らせる資料
また、『昭和二十年の「文藝春秋」』の巻末には「資料編」が付いている。この「資料編」には以下の3つの資料が載せられている。
- 〔広島・長崎・沖縄〕大量殺戮の実態と、歴史をいまに伝える施設
- 東京市人口統計に見る空襲の酷さ。東京の人口は戦争によって激減した
- 極東国際軍事裁判で裁かれた戦争指導者
この本を読み解く際に、これらの資料が必要なわけではない。この本には原子爆弾・空襲・戦犯について述べた文章が載っているものの、これらの文章を理解するために上記の資料がなくては読み解けないというわけではない。正直に言えば、この本の本筋とは関係がないように見えることが資料として載っているのである。それにもかかわらず、この本の編集者はこれらの資料をあえて載せたのだ。編集者が無意味にこれらの資料を載せたのでなければ、背後に何らかの理由があるはずだ。それはおそらく、昭和二十年に出された「文藝春秋」の背後には、原子爆弾や空襲のような悲惨な状況があり、それが戦争指導者によって招かれた惨禍であるということを想起させるために載せられたのであると考えられる。
ひっくり返った価値
冒頭で触れたように、昭和二十年の日本は、敗戦により大きく変わる。戦中から戦後へと大きく変わるのである。周知の通り、戦中と戦後には、考え方に大きな違いがある。この違いが「文藝春秋」にも表れている。
戦中は「聖戦」を貫徹するために、すべてのものが戦争のためへと投入された。「文藝春秋」に載った作品もその例外ではなかった。戦後は、戦中の誤りに関する批判・反省が見られるようになる。「文藝春秋」に載った作品についても、戦争の問題点が挙げられるようになる。
科学の仮面をつけた精神論
戦中の「文藝春秋」——新年号・二月号・三月号——では戦意の高揚を意図した文章が多数掲載されている。
新年号には神経学者の林髞が書いた「神経戦」という文章が載っている。この文章では、「国民よ、図太くなれ」と説き、空襲を恐れて戦意をなくさないようにと訴えている。空襲で腰を抜かしてしまったら、梅干しを食べればよいといったことも書かれている。この年の東京を始めとした各地の都市の大空襲、あるいは広島・長崎の原爆、沖縄における地上戦の実態で、梅干しがいかほど役に立ったというのだろうか。畢竟、科学の仮面をつけた精神論でしか対抗できないところに追い込まれていたのだ。そして、「文藝春秋」もそのような精神論を載せて煽っていたのである。
文学者も同様であった。著名な歌人である齋藤茂吉は新年号に「特別攻撃隊」と題して、短歌を5首載せている。その中の一首が「きはまれる大き行為を端的の捨命のごとくわれもおもはむ」というものである。また、小説家の佐藤春夫は二月号に「父祖三千年子々孫々のために我々親子三代の運命を捧げる使命を果すまでである」と書いた。このように生命の価値を低く見積もり、戦争につぎこむ言葉をつむいでいたのである。
編輯後記もまた戦争を煽っていた。二月号の編輯後記は以下のような文章から始まっていた。
「鏖殺」とはみな殺しの意味。この時代特有の極端な修飾語句を伴う煽りを感じ取ることができるだろう。
新しい価値観
十月号以降、すなわち戦後に出された「文藝春秋」では、雰囲気が一変している。前述の精神論は、敗戦という現実に完膚なきまでにたたきのめされた。そして、なぜ日本が負けたのかについての議論が行われるようになったのである。そこには、戦中の価値観への批判と、新しい価値観の導入があった。
十月号に正木昊が書いた「原子爆弾と斬込特攻隊」という文章は、まさに戦中の日本の精神主義を批判した文章である。正木は、日本の特攻隊を自国民の生命を軽視の表徴であると見なす。さらに、その背後にある精神主義を、為政者による民衆奴隷化としてとらえた。そして為政者を以下のように激しく非難するのである。
また、同じく十月号に中谷宇吉郎が書いた「原子爆弾雑話」を見てみよう。この随筆に戦中の原子核崩壊の研究委員会の委員となった物理学者の話が出てくる。この物理学者は研究に必要な資材として真鍮棒一本を入手するために関係官庁のところまでわざわざ出かけたそうである。真鍮棒たったの一本すら容易に入手できないことについて、中谷は以下のように述べている。
前述の正木の言のように激しい言葉ではないが、この穏やかな言葉がかえって辛辣に見えないだろうか。
菊池寛の転向、あるいは変節
『昭和二十年の「文藝春秋」』には、戦中と戦後の菊池寛の文章が載っている。実は、戦中と戦後の双方の文章が収録されているのは菊池のみである。
戦中の菊池の文章は戦争に対して恐れをいだいてはならないと戦意高揚をはかる内容が含まれているのに対し、戦後の菊池の文章は戦争指導をはげしく批判し、日本人の問題をえぐり出している。まったく別人が書いているかのようである。
菊池は「文藝春秋」の創刊者であり、昭和二十年当時は「其心記」というコラムを掲載していた。
戦中の二月号の「其心記」では、政府に対して苦言を呈しつつも、東京への空襲について次のように述べている。
そして、これに続けて、国民に慌てずに覚悟を決めるように訴えかけている。しかし、菊池の言もむなしく、その後の3月10日の下町の大空襲をはじめとした度重なる空襲によって、東京はまさに荒野原となった。
戦後になると戦中の書きぶりが一変する。十二月号の「其心記」には、次のように記されている。
この落差がおそろしいのだ。
ところで、十一月号の「レイダー」というコラムには以下の激しい言葉が記されている。
このコラムの著者は、菊池のことをどう思っただろうか。逆に、菊池は自誌に載ったこの文章をどう思ったのだろうか。自らのこととして捉えたのだろうか。
なお、「菊池寛アーカイブ」の「話の屑籠」 [2] というページで、戦前・戦中・戦後の菊池寛のコラムを読むことができる。菊池がどのように書き方を変えたのかを実際に見てみたい人は参考にすると良いだろう。