「法三章」に対する注の誤り
『続法窓夜話』は明治・大正の法学者穂積陳重が書いた法律の逸話をその子である穂積重遠が1冊にまとめたものである。現在、岩波文庫に収録されている [1] 。
岩波文庫では、『続法窓夜話』の本文の語句に対して、注が数十個付されている。その中で、注が誤っているものがある。それは、以下の引用部分の「法三章」に対する注だ。
たとえ教育あり文字あり法文を解し得るものであっても、「法三章」「十二表法」の古代とは異なり、数千則数万条に上る現代国家の法規を知り悉すことは到底不可能であって、自身の日常生活または職務職業に直接関係のある法規を必要上知っているくらいが精々である。
ここの「法三章」に対して、岩波文庫では以下のような注が付せられている。
Tripertite前一九八年コンスルのアエリウス(Sextus Aelius Paetus Catus)によって著わされたローマ最古の法律書。内容は、十二表法・十二表法注解・訴訟法(legis actio)の三部よりなる。
この注は明らかに見当違いのものである。本文の「法三章」とは、劉邦(漢の高祖)が、関中という土地を占領したときに作った法のことだ。関中は秦王朝の厳しくて煩雑な法律に悩まされていた。そこで、劉邦は、こうした法律をやめ、殺人・傷害・盗みの3種類の罪だけを罰すると決めたのである。この故事により、「法三章」は簡潔な法律の代名詞とされる。
『続法窓夜話』の本文では、「数千則数万条に上る現代国家の法規」と対比する形で、「法三章」と「十二表法」が挙げられている。この対比の効果を考えると、「法三章」は簡潔な法律でなくてはならない。となると、ここの「法三章」をローマの法律書といった専門家向けの込み入ったものと解釈するのはおかしいのである。また、アエリウスの法律書は十二表法の解説も含まれるものであるから、「法三章」がローマの法律書であるとしたら、それと「十二表法」が並列されるのはおかしい。
いずれにせよ、ここの注は、劉邦の故事について書くべきである。ローマの法律書を挙げるのは適当ではない。
付:「慶安触書」に対する注
岩波文庫版の『続法窓夜話』には、本文の「慶安二年丑二月の触書」(p.124)に対して、以下のような注が付されている。
「慶安御触書」といわれるもので、江戸幕府が、一六四九(慶安二)年二月二十六日に「諸国郷江被仰出」と題して公布した触書。
近年では、「慶安触書」は1649年に幕府が出した法ではなく、1697年(元禄10年)の甲府藩が出した法令であると考えられている [2] 。これが19世紀に入って、1649年の幕府法であると誤認され、明治以降もその認識が改まることがなかった。
岩波文庫版の『続法窓夜話』が出た1980年の段階では、上に引用したような注で問題なかったのだろうが、研究が進んだ現在の段階では注を書き改めた方がよいと思われる。
- 以下の記述は、2014年11月14日に出た第6刷によるものである。 [↩]
- 山本英二.(2015). 「近世日本の日常生活——慶安触書はいつ流布したのか」歴史科学協議会〔編〕『歴史の「常識」をよむ
』(pp. 144-147) 東京:東京大学出版会. [↩]