はじめに
2014年5月初旬に、中国が西沙群島 [1] で石油掘削を始めたことから、ベトナムと中国との間の対立がはげしくなっている。西沙群島は、中国の実効支配のもとにあるが、ベトナムも領有権を主張しており、ベトナムは中国の行為に大いに反発している。ベトナムでは大規模な反中国デモが発生し、ベトナムに進出する中国企業には大きな被害が出ている。
両国の領土をめぐる争いは今に始まったことではない。問題となっている西沙群島について言えば、1974年に中国と南ベトナム [2] の間に紛争があり、その戦いの結果、西沙群島の全ての島が中国の支配下に置かれることになった。また、中国とベトナムの間には陸上の国境もあるから、そこでも国境紛争が起きている。例えば、1984年には中国軍がベトナム領に侵攻、占領する事態が発生している。
現在の海上の争いを見ると、中国という大国はベトナムという小国に対して譲る気配はないように見える。しかし、中国が歴史上常にこうした態度を取ってきたわけではない。実は、かつて中国は領土争いをしていた土地をベトナムに対してゆずったこともある。それは清朝の第五代皇帝の雍正帝(1678-1735、在位1723-1735)の治世のことである。今日は、雍正帝の治世の下で、中国がベトナムに対して領土をゆずったこの事件について紹介する。
高其倬の上奏
清朝は、中華世界に生じた王朝のうち、最も繁栄した王朝の1つである。その中でも、第五代皇帝の雍正帝の治世は特に繁栄した時代であった。雍正帝の治世は、日本で言えば八代将軍の徳川吉宗が享保の改革を行っていた時代に相当する。雍正帝は独裁君主として非常に勤勉であり、政務に精励していた。
雍正三年(1725年)、雍正帝のもとに雲貴総督の高其倬 [3] から上奏文が届いた。高其倬は、ベトナムが中国領を不当にも占拠していると訴え出た。高其倬の務める雲貴総督とは雲南省と貴州省を管轄する地方長官である。雲南省はベトナムと接しているから、ベトナムとの間の争いは雲貴総督がまず管轄するのである。
高其倬は次のように上奏している。
要するに、もともと中国領だと思っていた地域に、ベトナムが進出してきたので、ベトナムから領土を奪い返したいと言っているのだ。高其倬の主張によると、もともとは旧来の賭咒河(ベトナム側からすると安辺河)が国境だったのが、明代末期に鉛厰が国境となり、さらに康煕二十二年(1658年)に馬伯が国境になったというわけだ。なお、開化府は現在の中華人民共和国の雲南省文山壮族苗族自治州の文山市に当たる。都龍は現在の文山壮族苗族自治州の馬関県都龍鎮で、馬伯は同じ県の馬白鎮にあたる。また、清の頃の一里はおよそ576メートル。
崇高な理想のために土地をゆずる
この高其倬の上奏に対して、雍正帝は以下のように返答した。
要するに、ベトナムとの善隣友好のために、わずかな土地なぞはベトナムにゆずってしまってもよいということだ。雍正帝がこう考えた理由は、上記引用文から考えることができる。中国の皇帝というものは、観念上は徳をもって世界を支配することを天から命じられている者である。そして、皇帝の徳は、自国の領域だけでなく、外国にまで及ぶことになっている。となると、中国に対してもベトナムに対しても同様に徳を及ぼさないといけない。天下をよく治めるという崇高な理想のもとで、できるだけ公平にしようというのだ。中国の利益ばかり考えて、他国の利益を損なうわけにはいかないのである。よって、ベトナムに対してゆずるという話が出てくるのである。
むろん、この考えの背景には、中国こそが世界の中心であり、他の国は中国に臣従すべきものであるという現代にはそぐわない観念がある。とは言え、結果的には中国という大国がいたずらに小国を抑圧する歯止めが生まれている。雍正帝の時代と現代とでどちらがましなのだろうか。
さて、この国境争いの件に関して、雲貴総督の高其倬はベトナムの王 [9] に公文書を発して、当時ベトナム側の領域となっていた土地は中国領であると伝えた。さらに、高其倬はベトナム側の領域に兵を送り、国境を設定しようとした。これに対して、ベトナム側は雍正帝に対して雲貴総督の行いを訴え出た。
これに対し、雍正帝は撤兵させるむねをベトナム側に伝え、ベトナム側にゆずっている。その際にベトナムの王に発した文書にも雍正帝の考え方がよく表れているので、以下に引用しよう。
皇帝というものは国内にせよ国外にせよ、民のためになるように政治をしなくてはならないから、国境をむりやり変更することで、ベトナムの民を苦しめることはできないのだ。
国境争いのその後
雍正帝の判断により、清朝がベトナムから領土を「取り戻す」という事態は避けられることとなった。その後、新しい雲貴総督のオルタイ [10] は、ベトナムとの国境地帯を調査し、鉛厰のもとにある小川に国境を設定しようとした。つまり、ベトナム側が言うところの賭咒河に国境を戻そうとしたのである。しかし、これに対して、ベトナム側は反発した。
結局、両国間の国境争いは、雍正五年(1727年)に雍正帝がベトナムに対して鉛厰付近の土地を下賜するという形をとることで落着した。雍正帝は考えを変えることなく、ゆずるという態度を取り続けたのである。
その後、1884年にベトナムの支配をめぐって清とフランスの間で戦争(清仏戦争)が起き、翌年フランスが勝利した。これを受けて、清はフランスとの間で国境を画定する作業を始め、1886年には都龍などの土地はベトナム領から中国領に編入されることとなった。
おわりに
東洋史学者の宮崎市定 [11] は「中国を叱る」というエッセーの中で、雍正帝がベトナムにゆずった故事に触れた上で、次のように述べている。
「心して自国の歴史を読め」という宮崎の言は25年も前のものであるが、この言は今でも通用するものであろう。
新華社の報道によれば、中国の常万全 [12] 国防部長は、2014年5月19日にベトナムの国防相との会談で、西沙群島での中国とベトナムの間の対立に関して、次のように述べたそうだ。
「歴史を尊重」すべきだと述べた人間は、雍正帝の故事を知っているのだろうか。過ちをおかさないようにする責任は、小国よりも大国の方が重いのだ。
- 西沙群島は南シナ海北西部にある珊瑚礁の島々である。ベトナム語名はホアンサ (Hoàng Sa) 諸島、英語名はパラセル (Paracel) 諸島である。中国・ベトナム・フィリピン・台湾(中華民国)が領有権を主張している。 [↩]
- 当時のベトナムは、南北に分断されていた。南ベトナムは、正式名称をベトナム共和国と言い、サイゴン(現在のホーチミン)を首都とする資本主義国家であった。 [↩]
- 高其倬 (1676-1735) は、清朝に仕えた官僚で、広西省の地方長官である広西巡撫を皮切りに、雲貴総督、閩浙総督、両江総督といった地方長官を歴任した。 [↩]
- 訳注:交阯はもともとベトナム北部を指す地名であるが、ベトナム全体を指すこともある。読み方は現代仮名遣いで言えば、「こうし」または「こうち」。漢字は「交趾」とも書かれる。 [↩]
- 訳注:「寨」は本来は「とりで」を意味するが、ここでは「村」といったところ。 [↩]
- 訳注:「塘汛」は関所という意味。 [↩]
- 訳注:「見在」は今、現在という意味。 [↩]
- 2018年1月11日:この文誤字修正。 [↩]
- 当時、ベトナムは安南を国号としていたので、清朝の側からすると、ベトナムの王は、安南国王と呼ぶことになる。 [↩]
- オルタイ (1680–1745) は清に仕えた満洲人官僚であり、雍正帝が最も信任した臣下の一人であった。漢字にすると「鄂爾泰」。 [↩]
- 宮崎市定 (1901–1995) は京都大学で長く教鞭をとり、中国の歴史について広く研究した。 [↩]
- 常万全は、1949年生まれの中国人民解放軍の陸軍軍人で、現在の階級は上将(他国の大将に当たる)。蘭州軍区参謀長、北京軍区参謀長、瀋陽軍区司令官、人民解放軍総装備部部長などを歴任し、2013年より、国防部長を務める。 [↩]