『日本書紀』に記された九州における大地震

概要
『日本書紀』に記されている天武天皇7年12月の九州での大地震についての記述の紹介。合わせて『豊後国風土記』の関連する記述と、現代の地震学的観点からの評価を紹介する。

『日本書紀』での記述

『日本書紀』には、天武天皇7年12月 [1] に九州で大きな地震が起きたことが記されている。『日本書紀』から関連する部分を引用すると以下の通りになる。

是月。筑紫國大地動之。地裂廣二丈。長三千餘丈、百姓舍屋。毎村多仆壞。是時百姓一家有崗上。當于地動夕以崗崩處遷。然家既全而無破壞。家人不知崗崩家避。但會明後。知以大驚焉。

〔書き下し文:の月、筑紫つくしのくにおほいに地動なゐふり、つちくること広さ二丈ふたつゑ長さ三千みちあまりつゑ百姓おほみたから舎屋やかすむらごとにたほこぼれるもの多し。の時、百姓おほみたから一家あるいへをかの上に有りて、地動なゐふるゆふべあたりてをかゆるを以てところうつれり。しかれどもいへ既にまつたうして破壊やぶるること無く、家人いへびとをかえて家のれるを知らず、会明あけぼのの後に知りてもつおほいに驚きぬ。〕

〔現代語訳:この月、筑紫国で大地震があり、地面が広さ2丈、長さ3000丈あまり裂け、民の住む家が村ごとにたくさん倒壊した。このとき、ある民の家が丘の上にあったのだが、地震があった日暮れ時にその丘が崩れて(家の)場所が動いた。しかし、家が壊れることはなく、家の人は丘が崩れて家が動いたことを知らなかった。ただ、明るくなった後に(丘が崩れて家が動いたことを)知り、大いに驚いた。〕

漢文は、黒板勝美校訂の大正年間に経済雑誌社から出た国史大系六国史の『日本書紀』のテキストによる。書き下し文と現代語訳は引用者による。

1丈はおよそ3メートルなので、この記述が真実ならば、かなり大きな地割れが発生したことになる。

『豊後国風土記』での記述

また、『豊後国ぶんごのくに風土記ふどき』では日田郡の五馬山 [2] に関する説明で、次のようにこの地震に相当する記述がある。

飛鳥淨御原宮御宇天皇御世戊寅年。大有地震。山崗裂崩。此山一峽崩落。溫之泉處々而出。

〔書き下し文:飛鳥あすか浄御原宮きよみはらのみやに御宇あめのしたしろしめしし天皇すめらみこと御世みよ戊寅つちのえとらの年におほいに地震なゐふること有りて、山崗やまをかえ、の山の一つのかひち、あたたけき泉処処ところどころよりづ。〕

〔現代語訳:天武天皇の御統治なさった時代の戊寅の年(=天武天皇7年)に大地震があり、山や丘が裂けて崩れ、この(五馬)山のとあるはざまが崩落し、あちこちから温泉が出た。〕

漢文は、国文研三井コレクションの『豊後国風土記』のテキストによる。書き下し文と現代語訳は引用者による。

地震学的な話

日本政府の地震調査研究推進本部地震調査委員会による「水縄断層帯の長期評価について」によれば、福岡県南部にある水縄みのう断層帯が、この天武天皇7年の震源らしい。

脚注
  1. 天武天皇7年の大部分は西暦678年に当たる。しかし、西暦の方が年が改まるのが早いため、天武天皇7年12月の段階ではすでに西暦679年となっている。 []
  2. 現在の大分県日田市天瀬町五馬市あたりと推定される。 []